日刊早坂ノボル新聞

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『死の国』ノート 13)精神と肉体の関わり

『死の国─神谷龍慶との対話─』ノート 13)精神と肉体の関わり
 話し手:神谷龍慶、聞き手:早坂ノボル

■神社で起きたこと        
(早坂)「これは以前お話ししたことですが、改めてお話しします。昨年のことです。岩手の御堂観音という神社にお参りしたのですが、鳥居下に立った時から、変な感じがしたのです。カメラを持っていましたが、ファインダーを覗くと、沢山の日輪が見えました。これは通常、直射日光をレンズが受けて乱反射した時に出来るものです。しかし、その時は日陰で、日光は差していませんでした。さらには、ファインダーを下に向けた時も、その丸い玉は見えていました」
(神谷)「ああ、前に早坂さんの言われた光玉ですね。煙玉と同じ性質のものですが、日輪に似せて出るものです。たぶん、普通の日輪とはかたちが違うと思います」
(早坂)「玉に模様が出ていましたが、虹の七色ではなく、すぐ近くにあった幕の色を反射したものでした。周囲の景色を反射するということは、それ自体が実体のあるものです」
(神谷)「光玉ははっきりした意図がある時に出るものです。それなら他にも普通ではない事態が起きたことでしょうね」
(早坂)「境内で何枚か撮影したのですが、女性のような少年のような顔が写ったり、霧が写ったりしました。霧は肉眼では見えなかった、と申しますか、晴天の日の昼でしたので、霧が出る余地がありません」
(神谷)「ははあ。その霧は現世とあの世、と言っても幽界ですが、それと接点が生じる時に現れるものです」
(早坂)「画像については、後でチェックしましたから、その時には分かりませんでした。その時に考えていたことは、それがたまたま胆のうの筋線腫と脾臓の筋膜腫に苦しんでいた時でしたから、『この痛みを取ってくれませんか』と念じていたのです。すると」
(神谷)「他にも現れるものがあったのですね」
(早坂)「はい。頭の中で声が聞こえて、『それは治る。だが心臓病の方は難しい』と言われました」
(神谷)「声ですか」
(早坂)「はい。はっきりとした言葉です。普段、自分が頭の中で考える時の声よりも、はるかに大きな声でした」
(神谷)「その後、何か変化が起きましたか」
(早坂)「数か月で腫物がかなり軽減されました。脾臓はほぼ完治。胆のうもほとんど痛みを感じなくなったのです。本題はこれからなのですが、この話を知人に話したのです。その知人は、ステージ犬遼?鉸盍擬圓如∝溝,忙呂泙蝓脳、せき髄、大腸に転移し、余命は一、二か月と言われていたのです。私がこの話をすると、早速、その人の親族が御堂観音を訪れ、ゆはずの泉で水を汲み、知人に飲ませたということです。すると、癌の進行が止まったそうで、その知人は1年後の今も生きており、自分の足で歩いています。状況的に見て、その観音さまのもたらした効用のようにも受け取れるのですが、どう解釈すればよいでしょうか」

■霊が治すわけではない
(神谷)「まず結論から申しますと、何かしら霊的存在が関わって、早坂さんやご友人の病気を治したのかどうかという点については、そうではないと思います。霊海(界)、もしくは神は、ひとり一人の人生に対し、具体的には手を差し伸べてはくれません。前にもお話しましたが、ひとり一人の人生は、雨粒が空で生まれ、地上に落ちるまでの出来事です。どのような落ち方をしようと、何時かは海に帰り着きます。霊海はそのすべてを迎え入れる存在ですから、雨粒が落ちる中途で何かしらの手助けをする必要が無いのです」
(早坂)「神は電波のような存在だから実人生に関わらない、とも言いますね」
(神谷)「電波は良い例えです。空気中には沢山の電波が流れていますが、そのままでは誰もメッセージを受け取ることが出来ません。受信器がその信号を受け止めて、音や画像に直し、スピーカーやディスプレイで出力して、人は初めてそれを受け取ることが出来るわけです。電波はそれ自体、直接的に人に係わることは無いのです」
(早坂)「では、霊海もしくは神が治してくれているわけではない、と」
(神谷)「次に、霊海ではない霊的存在、すなわち幽界の住人が関わっているのではないかということの検討に入ります。こちらの方は幾らか可能性があります。幽霊は自我を保っており、生者に関わろうとします。しかし、いつも申し上げる通り、ひとの形をして現れる霊に善霊はおらず、総て霊海に行けない者たちです」
(早坂)「病気の治癒に関わろうとするのは、良くしてくれようとしているわけではない?」
(神谷)「そうです。何らかの自らの欲望を達成するために関わろうとするのです。最大の目的はその人に同化して、一緒に行動することです。乗っ取るという表現に似ていますが、区分出来ない存在になるということですので、少し違います。『同化』が最も的確な表現と思います」
(早坂)「憑依するのではなく、その人を自分だと思う。自我がひとつになるのですね」
(神谷)「幽霊は論理的に考えているわけではありませんが、結果的にはそうなります。そして、自身を幽界に留まらせている執着心の根源的理由を達成しようとするのです」

■心と体の関わり
(早坂)「では、医療に依らない治癒は、霊的現象ではないということですね。しかし、現実には起きています。そうなると、どういう風にそれが起きるのでしょうか」
(神谷)「数十年前にフィリピンの魔術医が評判になったことがあります。その男が患者のお腹を触ると、血が噴き出したので、あたかも男が指でお腹を裂き、外科治療をしているように見えたのです。日本からも多くの人が治療を受けに行きました。しかし、撮影した映像をよく見ると、男は握りしめた手の中に鶏や豚の内臓を入れていました。お腹を手術したわけではなかったのです。このため、殆どの者が『魔術医は偽者』という結論を得ました」
(早坂)「ああ、その件は私もよく憶えています」
(神谷)「その魔術医は指で治療を行ったわけではない。そのことは否定されました。しかし、治療を受けた患者の中には、少数ですが現実に難病が治癒したケースもあったのです」
(早坂)「魔術は行われていないのに、癌が治癒した」
(神谷)「これは、精神が肉体をうまくコントロール出来たというように解釈できます。治癒した、させたのは呪術医ではなく、患者本人の心です。『これで自分はよくなる』と思い込むことで、実際によくなったりするわけです。もちろん、ごく少数の人だけに起きることではあります」
(早坂)「以前にも話題に上ったと思いますが、私の別の知人に、旦那さんが余命ひと月と宣告された夫婦がいます。その夫婦は思い出づくりのために登山をしたそうです。山の上から下界を見ると、とても清々しい気持ちになった。そこで下山したら、病気の進行が止まり、半年後には完治してしまいました」
(神谷)「ひとのこころと体、精神と肉体は密接に関わっています。体の状態が悪ければ、気分もすぐれなくなりますね。逆に、こころのどこかには免疫力を高めるスイッチがあり、それを押すことで、体の状態が改善される。山に登ったお知り合いも、そのスイッチを入れることに成功したのだろうと思います」
(早坂)「なるほど。私の場合、観音さまでの体験は、私自身が作りだしたイメージなのか、実際に霊現象が生じたものか、はっきりとは言い切れない面があるのですが、それをきっかけにして、体の潜在能力が高まった。そのように見なせば、科学至上主義の人も、あるいは神秘主義の人も頷ける事態ですね」

■上手に生きる術
(早坂)「ここで話題を少しずらしましょう。科学を信奉する人は、多くの場合、超自然の力を総て否定します。医者の中には、病状を見て『1年後の生存確率は5%程度だから治療は困難』とあっさり口にする人がいます。発生確率が5%を切る事象は『起きない』と見るのが統計学的な確からしさです。ところが、見方を替えると『5%は生きている』ことになります。規則に当て嵌まらない部分も存在するのです。私も最初の医師からは『良くて1年』と宣告されています。その通りなら二年前には死んでいる筈ですが、こうやって生きていますし、立って歩いてもいます」
(神谷)「5%であれば、二十分の一ですね。小さな紙に1から20までの番号を書き、これを伏せて1枚を引く。これをやってみると、何度か目の試行で引き当てることが出来ます。人によっては一度目か二度目の人もいるでしょう。専門家が傍観者的に眺める時と、患者本人が主体的に考える時の考え方は、少し違います。後者なら5%ならチャンスは十分にあると考えるべきです。でもお話の中核はそこではありませんね」
(早坂)「科学至上主義者の反対側には、逆にそれを否定する人もいるわけです。ある宗教の信者には、受療を拒否して、子を死に至らしめたケースがあります。神の与えた自然ではないという理由のようですが、これは前述の科学至上主義者の正反対の立場となります。私は双方とも愚かだと思います」
(神谷)「医療で治療できる部分は医療で行うと、最も早く病状の改善をはかることが出来ます。ですが、そうでない場合もあります。そういう時には、医療技術に依らない方法を試しても良いでしょう。ただし、『絶対』はありません。それを持つだけで、たちどころに病気を治してくれる『護符』は無いし、その人に診て貰えば必ず治してくれる『呪術医』もいません。もちろん、人によっては、その人の中にある何らかの鍵を開けられるかもしれない。そのことで免疫力や抵抗力が高まり、自らが自らを治癒出来るかも知れません」
(早坂)「私は入院していた時に、死神らしきものを直接目にしました。このため、自身や身内の者が病床にある時には、ベッドの脚にお守りを結び付けたり、セージの葉を置いたりしています。これは気休めに過ぎないと分かっているのですが、こころが落ち着きます」
(神谷)「早坂さんの場合は、のめり込んでおられるところが見受けられません。けして間違いではないと思います。しかし、様々な困難に直面している人は、藁にもすがる思いで、自称霊能者や祈祷師、呪術医を訪ねたりするものです。しかし、殆どの場合、そういう人たちは何もしてくれません。改善が見られることもありますが、そういう人の手腕によるものではなく、訪れた側が自らを癒しているのです。ひとり一人の中に、生命力を呼び起こすスイッチがある筈ですが、それは人によって違います。このため、誰かを頼るのではなく、常日頃から、自分を高める糸口を考え、試す姿勢が重要です」