日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎「見て見ぬふり」の大切さ

◎「見て見ぬふり」の大切さ
 今日は通院日。
 治療が終り、帰り際に、ある看護師にこう尋ねようと思ったのです。
 「コムロ※※ヤさんの彼女は、一度でも『奥さんがいなくなってくれたら』と考えたことがあると思いますか」
 同業の看護師だし女性だし、思う所があるのかも知れません。

 コムロさんの不倫話では、登場人物がいずれも困難を抱えたひとばかりだ。
 本人は、あと十年は「稼いでも稼いでも借金返済」だろうし、この7年は奥さんの介護に従事してきた。
 奥さんは若くしてくも膜下出血を患い、後遺症に悩まされている。
 看護師さんは、ダンナと離婚して、一人で子どもを育てている。パート看護師の給料では、暮らしていくのは容易ではない。

 そういう、互いにぎりぎりのところにいるから共感するところがあったのだろう。
 たぶん、慰めになった。
 もちろん、「明日」は無く、いずれはお別れが待っている。
 普通の人間の神経では、「障害を持つ奥さんと離婚して、健康な女性と再婚する」ことは出来ないからだ。
 どういうかたちであれ、悲しいお別れが待っている。
 「明日」が生まれるとしたら、唯一、奥さんがいなくなった時だけだ。
 そこで冒頭の質問になる。
 極めて残酷な問いなのだが、私の務めはひとの心を推し量ることだ。

 おそらく「いなくなってくれたらなあ」と想像したことはあったと思う。
 看護師さんの人生を成り立たせている基盤は「善意」なので、「いなくなってくれ」ではなく、「もしいなくなったら」をほんの少し想像する程度。
 仮にそう考えたとしても、誰もそれを責めることはできない。
 頭の中にあることは証明できないので、それでひとを断罪することは出来ない。
 SNSに書いたら、もちろんダメですが。
 
 言葉に出し、表に出すことで罪は生まれる。
 この場合、問題があるのは出版社のほう。
 弱っている人間を叩くのは、けして正義ではないと思う。
 足の不自由な人が青信号で横断歩道を渡り切れず、信号が替わってしまったら、クラクションを鳴らすのではなく、待ってあげるのが正しいあり方だ。
 困難を抱えた人が寄り添ったのを掴まえて、「ほれルール違反」とばかりに記事にするような輩には、バチが当たればいいと思う。
 ま、調子に乗り過ぎの感があるので、いずれ行き詰るだろうとは思う。

 「見て見ぬふり」は、ひとが生きて行くうえで、大切な振る舞いだ。

 ちなみに、看護師さんに訊きませんでした。
 話を持ち出す前に、相手からもっと面白い話題を振って貰ったからです。