日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎けして美談ではない

◎けして美談ではない
 元野球選手のHさんが亡くなった時に、メディアは挙ってこんなことを書いていた。
 「Hさんは、亡くなる直前まで病気のことを他言しなかった」
 まるでそれが美談であるかのような文言だ。
 ま、この手の記述は誰かが亡くなった時にはよく書かれ、ほとんどステロタイプ的な表現になっている。要するに「潔く死んだ」ということで、侍の腹切りをイメージしているわけだ。

 しかし、私はこういうのにはまったく同意できない。
 闘病生活を送るのに、すっぱり仕事を辞めてしまう人は少なく、ある程度、体調を見ながら仕事を続けている人のほうが多いだろうと思う。
 もし周囲の人に自身の病気を伝えておかねば、いざという時に、仕事に突発的な穴を開けてしまうことになる。
 私が8年前に倒れた時には、半年以上前から具合が悪かったが、ある日突然倒れたことで、月刊誌の連載には穴を開けるわ、新聞は長期休載になるわの事態になってしまった。
 その頃はコンサルタント業が本業で、そっちはたまたま契約の境目だったから、途中で放り出さなくて済んだが、もちろん、更新は出来なくなった。
 予め体調が万全でないことを伝えておき、「もしもの時」の手配とか、代替原稿を渡していれば、多方面に迷惑を掛けることも無かったと思う。
 有名作家や評論家なら、スペースを固定してあるから、空白行だらけの記事をそのまま載せるが、三文以下の書き手なら即クビだ。

 ただし、病気であることを公表することで、もちろん、マイナスの効果も生まれる。
 顧客を持つビジネスをやっていれば、客の方が業務から撤退してしまうかもしれないし、その病人に「取って代わろう」と思う者にチャンスを与えてしまうことになりかねない。
 そうなると、仕事については、色々判断すべきことがありそうだ。

 ま、「他人の不幸は蜜の味」で、誰かが重い病気になると、大喜びで吹聴して回るヤツは沢山いる。それを嫌って、他言しないようにすると、その手の輩はこと細かに詮索して、さらに吹聴して回る。
 一般人ならともかく有名人なら、病室の中を撮影しようとするメディアまで出て来るだろう。
 自分が死の床にある時、そんなクズ記者に見張られるようじゃ、死の間際に「あの出版社など焼け落ちろ」と呪いながら死ぬと思う。

 しかし、もっと大事なこともある。
 もし病気を隠していれば、誰もその人が闘病中だとは思わない。
 「俺は※※病と戦っているんですよ」と言うことで、情報が集まって来るという利点がある。
 「その病気には▲□がいいらしいよ」
 「◇○をすることで治ったという人もいるよ」
 この手の話は、割合たくさん耳に入る。
 ひとつ1つの効力については、色々と確かめ、調べる必要があるが、しかし、情報があれば、少なくとも検討は出来る。
 他言せずにいれば、誰も話題にはしない。

 こういう可能性に耳を塞ぎ、黙って死んでいくことが美しいかどうか。
 私はまったくそう思わない。
 黙っていることは、まだ生きられるチャンスをむざむざ捨てるのと同じだと思う。