◎次第に出て来る
画像は、少し前に「存在しないもの」で掲示したのと同じものです。
これまで気がつかなかったものが出て来ました。
姿かたちはどうでもよく、念もしくは意識を発しているかどうかが重要です。
以前はこちらへの意識は無かったのですが、今は焦点が合って来ています。
幽界の住人は、自然の造形物の形をとり、それに乗るという方法で存在を示すのですが、かたちそのものは元々、自然界に存在するものです。
よって、念や喜怒哀楽の波動を感じられない人は、「ただの石」「ただの草」に見えてしまいます。
中には「あれ?何か変だ」と思う人もいますが、そういう人は、いくらか感度のよいセンサーを持っているのだろうと思います。
下部の視線(たぶん外国人)は、ほとんど影響はありませんが、丸印の中はじろじろと見ています。こういう感じのものは、あまり良い性質のものではありません。
少し目が飛び出して見えるのは「首を吊ったから」で、なかなか死ねずに、しばらくの間苦しんだ。
このため、死んでからも、そのままのかたちを取っているのでしょう。
ここははっきり写っておらず良かったです。きちんと出たなら、目玉は飛び出し、舌がだらっと下がっているはずです。
ま、そういうのを見てしまえば、首を吊って死のうと思う人が減りますので、見えたほうが世のため人のためになるのかもしれません。
もちろん、以上は総て妄想です。
あの世には確定的なものは存在しません。また、霊魂は同化しますので、一人に見えても五十人、百人が集まっている場合があります。
「かたちなど空しい」と言われる通り、見えたものが真実とは限りません。
センサーの敏感な人は、風景や画像を眺めたときに、どこか気になってしまうことがあります。
そういう「あれ?」という感覚が進むと、次第に相手側からもこちらの存在を感じ取れるようになります。
よって、この手の画像はあまり見詰めないことが肝要です。
いざ始まってしまうと、こちらにどんどん踏み込んできますので、煩わしくて堪りません。
霊的現象は「人を選んで現われる」のです。
そういうのは「程々」か「少々」に留まっていてくれた方が暮らしやすいです。
沢山出ても、ただ煩わしいだけで、何の役にも立ちません。