◎穴がある
画像は某神社の北東で、境内の外側だ。
ここを訪れる度に、この方角には「穴がある」ように感じる。
小道が見えているので、山作業をしている場所なのだろうが、神社で時々見掛ける茅の輪のような穴が広がっている。大きさもそれくらい。
もちろん、普通の人には見えないと思う。これが見えるのは変人だけ。
「撮ってやろう」もしくは「写るな」と構えると何も起きないが、無心のままここを撮影すると、人の姿が写る。
冬に訪れて、雪景色が綺麗なので撮影したら、人がしゃがんでいた。
(これも、「まったく見えない」という人もいる。)
程度の差はあれ、神社やお寺の外側には、様々な霊が集まっている。
ここでいう「霊」とは幽界の霊のことで、「幽霊」とも言う存在だ。霊界に行けずに、自我を保ったまま、幽界に留まっている。自我が崩れぬ要因は、主に執着心だから、幽霊は総て悪霊だと見なすことが出来る。人の姿をし、人に語り掛ける霊は、たとえどんなことを言おうと、浮かばれてはいない。その意味では、守護霊とか指導霊とかいうものは存在しないと考えられる。すべて、生きている者が考え出した都合の良い想像であり妄想だ。
しかし、自我をもたせる執着心にも程度の差はあるらしく、左側に顔だけ出ている女性には悪意らしい悪意はない。そうなると、幽霊はすなわち「悪霊」という表現は適切ではないかもしれないと思う。
「迷っている」と見なす方が正しいのかも(迷霊?)。
この手のは、そこら中にいるが、生きている人間の数より多いのではないか。
ただし、自分にしか興味が無いので、自分は独りきりだと思っているようだ。
穴はこの世と幽界の接点なので、普段は知覚出来ない相手を察知することがある。
写真に写るのは、そのせいだろう。
本題はここから。
穴の周囲では、この世の者(生者)が幽霊を察知出来る(ことがある)のと同様に、あちら側からも生者を察知出来る(ことがある)。
何の変哲も無い山(多くは低い)や森で、人が忽然と姿を消すことがあるが、それはこういう「穴」に関係しているのではないかと思う。
遭難・行方不明の中には、どうにも説明できないものがある。
1)大半がなだらかな高原や山、森林の中で起きる。けして難所ではない。
2)集団で行動している。多くは観光客。
3)他の者と離れずにいるのに、忽然と消えてしまう。
4)大半が集団の先頭付近にいた者。
日本で有名なのは、何年か前にA山の神社で主婦が消えた事件だ。他の仲間と一緒に、参道の横にあるトイレに行ったのだが、一人だけ戻って来なかった。
他の人と何か話をしている光景がビデオに撮られていたが、1、2分後にはどこに行ったか分からなくなった。周囲5キロの範囲に、事件・事故の形跡は残っていない。
最近、テレビで観たが、米国でも同じような事件が数百件と起きているそう。
パターンは日本と同じだ。テレビでは「ハイキングのグループの先頭にいた人」と言っていた。
人や獣に襲われたなら、必ず痕跡が残るが、それがまったく無い。
仲間とは50辰睥イ譴討い覆ぁ
昔から、別の世界に繋がる「穴」の話が残っているが、人が消えた先は遠くの違う場所だったり、別の時代だったりと様々な内容になっている。
時代を超えて同じような話が残っているのをみると、まったく根拠の無い話ではないのではないかと思う。
しかし、現地を調べることが出来ない件なので、非常に歯がゆい。
この話題を家人とした時の会話。
「お父さんなら、どうなってるか分かるんじゃないの?A山の神社には私も行って見たいから、一緒に行こうか」
「そりゃ駄目だよ。まずは真っ先に俺が消えるもの。あっちからは俺がよく見えるらしいからな」
追記)画像は同じ石碑の左側(夏)と右側(冬)に撮ったもの。
女性の顔が見える人は、視線が気になると思いますが、心配ありません。見ているのは私のことです。
ちなみに「誰かがこっちを見ている」と感じる人は3、4割。「かたちはないが複数だ」と思う人は数パーセントだろうと思います。声が聞こえる人も同じくらい。
もちろん、多くは妄想です。そうでない人は、自身の記念写真を点検すると、そこに必ず入っています。
「気のせい」と思う人は煩わしさを感じることなく暮らせます。その方が幸せ。
常に「実際にはいない人」の気配を感じ、声を聞くようになると、煩くてかないません。