日刊早坂ノボル新聞

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◎釜沢淡州の伝説

◎釜沢淡州の伝説
 釜沢淡州・小笠原淡路守重清について、史実として語られるのは「九戸一揆には両陣に不参だったこと」と「それを理由に一揆直後に攻められ、滅んだこと」の二つだけです。
 断片的に落城の様子を伝える話もありますが、どうやら後世の人が書いた作り話のよう。
 事実に近いことは、「一揆が制圧された数日後に攻められた」ことだけです。

 まず第一に違和感があるのは、「参陣しなかったから」という理由についてです。
 これは羽柴秀吉が小田原攻めの後で用いた言い掛かりを真似したもの。秀吉はこれを根拠に奥州の地侍の多くを改易しました。
 狂人の秀吉ですら「まずは改易」を伝えることから着手したのに、南部大膳はいきなり攻撃させています。これは一揆平定後間もないことなので、事実上、予め「攻めるつもりだった」ということを意味すると思います。
 この時、重清が篭城したので、攻め手大将の大光寺光親が館を包囲し、館に火を掛け、攻め落としたことになっています。

 ある伝説によれば、篭城する際に、重清は用人の中に室と子を紛れ込ませ外に逃がすのですが、母子は攻め手に掴まりその場で殺されます。
 違和感の二つ目はここで、侍やその家族はともかく、用人までを殺す例はそれほど多くありません。もし事実だとすれば、事前に「皆殺しにしろ」というめいれいが下っていたケースだけだろうと思います。合戦の度に非戦闘要員までを殺していたら、日常生活に戻るのが困難になってしまいます。
 どう攻めたか、あるいは重清をどう殺したかがまったく語られていないのが不信感を呼ぶところです。
ただし、情報を隠すのは「都合の悪いことがあるから」という意味でしょう。
これは今の政治でもまったく変わりません。 

 釜沢に伝わる伝説には、「釜沢淡州を攻め殺した後、南部大膳の枕元に夜な夜な淡州の幽霊が立った」というものもあります。まあ、物語性が強いので、これも後世の作文でしょうが、「それほど酷い仕打ちをした」ということの裏返しなのかもしれません。世間的に「ちょっと酷すぎる」と見なす風潮があった。

 ここからは推測ですが、南部大膳一派は「当初より釜沢を接収つもりだった」が、九戸一揆はその理由付けに格好の素材だったのではないか。
 ひとまず「空け渡せ」と伝えたが、重清が応じるわけがありません。
 重清が断ると、大光寺勢は即座に攻撃を始めたのではないかと考えられます。
 あこぎな話で、この詳細が広まらないように皆殺しにしたが、これも事前に命令が出ていた。
 重清についても惨たらしい殺し方をしたので、後にこれが「幽霊になって」という話に結び付いた、と考えると、頗る分かりよいです。
 しかし、そこで生じるのは、「何故、一介の地侍に過ぎない釜沢淡州を殲滅しなくてはならなかったか」ということです。
 絶対に見過ごせぬ事態とは何だったのか。

 歴史は常に生き残った者のために書かれ、敗者は闇に葬られてしまいます。
 滅んだ者に関する記述など、わずか一二行しか残りません。
 ところが、その周囲の空白には、数多くのことが物語られているようです。