日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎「あの世」への扉

◎「あの世」への扉
 ひとつの部屋の中に「間仕切り」があり、二つに隔てられている。これが現世(界)と幽界の境目で、互いに「壁がある」と思っているので、互いの存在を意識しない。
 それらしき気配を見たり聞いたりしても、それは想像にすぎず、「存在しない」と信じ込む。
 
 改めて眺めると、この「間仕切り」とは肉体のこと。
 ひとは成長とともに、自我を確立し、自己実現を図る。
 自我は肉体とともにある、と言っても良い。
 ところが、肉体は必ず滅ぶ宿命にある。
 いずれ間仕切りが取り払われ、自身も「壁の向こう側」に渡ることになる。
 元々、「存在しない」と思っていたのに、実際は存在しているとなると、そこでどうして良いか分からなくなってしまう。
 その状態で立ち止まり、足踏みしている存在が幽界の霊、すなわち幽霊だ。
 生きている時の自我を抱え、執着心でそれを保っている。
 幽霊の多くは生前の恨み辛みを延々と呟く。
 
 その状態から抜け出るには、次はその部屋から出る必要がある。部屋を出ると、そこは仕切りの無い世界になる。
 数字のゼロと同じで、存在するが、他との関わりを持たない。と言うより、自も他も存在しない。
 言い換えれば、「部屋」の内と外の境目は「自我を持つ」か「持たない」の違いだ。

 以下は例え話。
 「母親が死んで悲しい」は、多くのひとにとって共通の感情だ。ところが、この感じ方は必ず「誰が」という主語がある。文章では省略されているが、「私は親が死んで悲しい」だ。誰にとっても、「私」という眺め方が出来るから省略できる。「誰」「私」はすなわち主観的・客観的に眺めた「自我」のこと。
 現世界および幽界の部屋の外では、その自我が無い。
 そこには「母親が死んで悲しい」ような心の動き(変化)だけがある。
 「誰にとっての」という視角自体が無い。目に見える物理的な変化ではなく、化学反応のような変化があると思えば、そう遠くない。

 このため、自我の無い世界(霊界)には「何もない」と言えるし、「すべての要素がある」とも言える。(ここは仏教の考え方を転用する。)
 ゼロはどこまで言ってもゼロ。
 生死を「方向性の違い」として認識するのであれば、何も無い霊(無自我)だけの世界がゼロで、プラス側が現世界、マイナス側が幽界となる。方向性が左右違っているが、二律背反ではなく、後ろが繋がっている。すなわち円で、行き着くところは同じ場所になる。
 「色即是空 空即是色」の本当の意味はこれだ。
 
 ここで、ひとつ発見することがある。
 生身の「ひと(生者)」と「幽界の霊(幽霊)」を隔てるものは、「肉体」の有無。
 霊界の霊(無自我)と、生者・幽霊を隔てるものは、「自我」の有無だ。
 では霊界(自我の無い世界)にいるのは何か。
 そこには、要素や性質はあっても、主格(=主語に同じ)はない。
 となると、結論は簡単だ。主語になりうるものが「存在しない」ということだ。
 あるいは人格になぞらえられるものが存在しない。
 すなわち、「神」や「仏」は存在しない。
 「守護霊」や「指導霊」も存在しない。
 強いて言えば、霊界全体がそうなのだが、「意思」を持つ存在ではないということ。

 肉体が滅んだ後、生前の自我を保とうとするなら、現世界に近いところで幽霊になる他はない。
 幽霊は「執念の塊」と言っても良い存在だから、もちろん、そこに幸福はない。
 このため、喜怒哀楽を脱却するには、それを感じる自我を捨てる他はない。
 自我を捨てれば、一人の「ひと」として生きた人生の歴史や経験、喜怒哀楽が失われてしまう。断片的な要素や、「そんな風な気持ち」は残るが、「誰の」という視角そのものが無くなる。生前の自意識と比べると、消滅するのに等しいが、これが「解脱」だ。
 
 再び例え話。
 土くれに水を加えると粘土になる。
 粘土を捏ねて成型し、焼き固めると、器や皿になる。
 この成型する作業が、ひとの一生だ。
 そうやって出来た器や皿は、いつか必ず壊れる。
 元の器や皿のかたちをなるべく維持しようとするなら、壊れたままの状態になる。
 ところが、破片を細かく砕き、土に戻し、また水を加えると、再び粘土になり、新しい器や皿を作ることが出来る。
 「現世(界)」「幽界」「霊界」の関係はこれだ。

 ここで生者の視点に戻ると、ひとり一人の目に映るのは壁(間仕切り)だ。生と死はこの壁で完全に隔てられている。
 生者からは、壁の向こう側は見えず、たまに声が聞こえる程度。
 壁には扉がついており、たまに少し開くこともある。
 このため、幽界の住人を目にすることもある。
 しかし、その扉をはっきりと把握することが出来ないから、「存在しない」と思い込む。
 幽霊は妄執に囚われ、それがかたちになって現われるような存在だから薄気味悪い。このため、多少のことを見ても眼を瞑る。
 そうすれば、「普段、眼に見えるもの」だけを見て暮らすことが出来る。

 ほとんどの人にとって、日々を楽しく暮らすには、それでよい。
 「死んだらどうなるか」を深く考える必要はない。
 死んだ時に多少驚くだろうが、それでも余程のことが無い限り、「霊界」には入れる。
 しかし、そうでない者もいる。
 壁・間仕切りに扉がついていることや、かつその扉が時々開くことを知る者だ。そういう者は逆に、その扉を注意深く扱う必要が生じる。
 眼には見えないから、うっかり入り込んでしまったり、ドアノブに手が掛かったりすることがあるからだ。
 ひとは、床の上に引いた十センチ幅の線の上を難なく歩くことが出来る。ところが、ビルの上に渡した十センチ幅の橋の上だと、往々にして足を踏み外し落ちてしまう。
 周囲の状況を把握し、その中にある危機を認知したがために、かえってその危機の中に陥ってしまうのだ。

 もっと大変なのは、生死を分かつ「壁や間仕切り」が実は「壁や間仕切り」ではなく「衝立」であることを知る者だ。
 「壁や間仕切り」と「衝立」の違いは何か。
 「衝立」は横を回れば、自由に行ったり来たり出来るのだ。対処しなくてはならない相手が、生者だけでなく、生者と幽霊の双方、すなわち「少なくとも二倍」になってしまう。