日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎霊験あらたか

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◎霊験あらたか
 台所に立っていると、時々、カウンターの陰に人の気配がある。視界の端にも着物の袖が見えたりする。最近、これが多くなって来たので、「もしかして、自分はいつも誰かを連れて歩いているのかも」と思ったりもする。

 昨日、CT検査の結果が出たが、脾臓と胆嚢の筋膜腫は「ほぼ消失」した模様。
 ま、十年も付き合ってるヤツが、何も治療していないのに消えたりはしない。
 隠れただけで、いずれまた出るとは思う。

 この1年間で変えたことと言えば、「ゆはずの泉」の水を飲んだくらい。やはり、初めて飲んだ時に下痢をする(下痢が出来る)人は受け皿が出来ているので、効能が出るようだ。
 そこで様々な持病に悩む叔母のところにも、水を汲んで届けた。
 やはり叔母も下痢をしたが、その後、あちこちが「よくなって来た」とのこと。
 ちなみに、叔母は沸かして飲んだのに酷い下痢をしたので、当初は「あんなものを飲ませやがって」てな対応だった。

 こういうのを「自然治癒だ」を思う人もいれば、「何かの力が働いた」と見なす人もいる。
 私は当然後者だ。この齢では病気を時間が解決してくれることはないからだ。

 さらに、画像にも説明の付かないものが残っている。画像は常に変化しており、新しいのが表に出てきた。この手のが嫌いな人にはスマンが、「治してもらう替わりに、知らしめる」と約束してある。
 こういうことなら、「心臓も治してくれ」と祈願すればよかった。
 その時はたまたま腹がじりじり痛い時だったので、「腫瘍」と念じた。
 心臓の方は検査結果の所見が2頁もあるのに。

 画像は初めて御堂観音を訪れた時のもの。
 最初のは「光り玉」で、お知らせのようなもの。ここには木漏れ日が少々当たるくらいで、陽は差さない。立ち位置にはまったく当たらないので、「光り玉」は日光が反射したものではない。
 次の画像は、よく観れば分かると思う。
 最初は女性1人だけだったが、草葉の陰から視線が見えて来た。
 たまたま「扉」が開いた時だったらしい。

 時々、家で見掛ける着物の女性はこの人なのだろうか。
 この女性はおそらく紫波の人で、旅の途中で亡くなったと思う。
 心が伝わればご供養のしようもあるが、執着しているものが分からない。
 ま、宿谷の滝に出る女性のように、人知れず眠っている女性が「家に帰りたい」と思っていることまで分かっても、女性のいる場所に見当がつかず、何も出来ない場合もある。
 ほとんどは何も出来ない。手立てが無いのだ。
 そうなると、私に出来るのは、「拘りを捨てて、霊界に入ってくれ」と念じることだけだ。

 人が沢山訪れるようになれば、その中にたまたま「浮かばれぬ霊たち」の縁者がいるかも知れない。
 その時は、おそらくその人と一緒に帰ることが出来る。
 故郷に帰れば、そこでわだかまりが解け、霊界に向かえるかも知れない。
 「自分のことを広く知らしめてくれ」はそういう意味なのかも知れん。

 追記)
 ほとんどの人にとっては、良かれ悪しかれ、影響はありません。
 特別な場所になるかどうかは、その人本人によります。
 神社にも、その周辺にも、普通に暮らしている方がおられます。
 すなわち、ごく普通の生活場所でもありますが、「面白半分」や「スリル」を求めて、敬意を払わぬと、とんでもないことが起きます。
 いざ悪縁が生まれると、「もはや助けてくれる人はいない」ので、霊場での振舞いには気を付けて下さい。
 困った事態になり、慌ててお寺や神社に行っても、あるいは祈祷師や霊能者を訪れても、ほぼ無駄です。お経や祝詞を唱えて、念の圧力で押し出そうとする程度。もちろん、たまにうまく行くこともありますが、あくまで「たまたま」です。