日刊早坂ノボル新聞

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◎盛岡八匁銀判

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◎盛岡八匁銀判
 水原正太郎『南部貨幣史』によると、大工町住木村筆太郎談として、次の記載がある。
 「慶応四年二月十六日。朝廷より盛岡藩仙台藩の援軍として会津藩追討の大命を受け、家老楢山佐渡が上洛の途中より呼び戻され直ちに軍議にとりかかった。軍用金として小坂産銀を盛岡に運んで、山内通用の名目で御用達平野治平衛、小野善十郎等が藩命によって八匁銀判を製作した。出征兵士に八枚(八両)づつ路銀として藩庁から交付されたという」
 極印丸に融は融通、丸に改は山内通用の意味である。原形、および極印の製作者は月館八百八と推定する。(東洋貨幣協会誌「貨幣」第九号、大正八年九月掲載)
 
 付記1)実際には、代官所や御用商人の一部に見本を配布したところで終わったようで、一般に流通したふしは見られない。秋田戦争に従軍した兵士は、当百差し銭を携帯したと伝えられている。量目30.0グラムで、「一両に満たなかった」ことも流通しなかった原因である(一両は九匁二分)。
 流通しなかったので、両替印などは原則として打たれていないことになる。
 付記2)当品がまとまって発見されたケースは盛岡市内八幡町に限られる。製造場所とされる本町から遠くないが、月館八百八の工房があったことと関係するものと考えられる。

<特徴>
 特徴として、従来、「極印に隠し(シークレットマーク)がある」ことが言われていたが、これが無い正品もある。「地金を叩き伸ばした際に、台座の紋様(筋)が筋となって残っている」ことなどを併せて観察すると分かりよい。
 八匁銀判を製造する際に使用した銀材が残っているが、これにも台座の痕が残っている。