日刊早坂ノボル新聞

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◎自分の回りにいる霊を確かめる方法

◎自分の回りにいる霊を確かめる方法
 人の周りには、必ず複数の幽霊が寄り添っています。
 幽霊は自分と似たような感情に反応して、近寄って来るのです。
 しかし、「霊感師」や「霊能者」が口にするような「憑依」や「取り憑いている」みたいなものではなく、ごく普通のことです。
 生きた人間でも、自分に近しい者同士が集まって仲間を作ります。
 幽霊には思考力が無く、ただ居心地がいいから寄って来るだけです。

 これを直に確かめる方法は、これまで私がやって来たやり方が、簡単かつ安全です。
 それは、日頃からきちんとお務めを行っている神社かお寺に行き、そこで自分の姿を写真に撮るというものです。
 境内に入った時に、雑草がきちんと刈り取られているところは、概ね毎日手入れがされており、お務めも丁寧に行われていますので、それが目安となります。
 高麗神社のように、ご神体と参拝客の間にガラスがあるところは、自身をガラスに映して、それを撮影するといいです。
 カメラ直写の場合、光源が一方向となり、あまり良く写りません。
 これまでの経験では、光源が二方向で、45度くらいの角度で交錯するような環境の時が写りやすいようです。

 「予兆」があるところでは、普通の場所でも写ります。
 予兆は、概ね「声」のことが多いのですが、「コソコソ」「カヤカヤ」という小さな囁き声が聞こえます。そういう時には、何かしら「説明のつかないもの」が写るようです。
 この場合も、2方向の光が交差していると、写りやすくなります。
 日光とフラッシュが45度くらいの角度になるような位置に立てば良いので、簡単です。

 煙玉はともかく、人の姿が写ると、かなり気色悪いのですが、画像に写ったからと言って、悪影響が生じることはほとんどありません。
 ただし、好奇心や「ネットで受けそう」「肝試し」みたいな感覚でやると、良くない影響が生じる場合があります。
 死者には「常に敬意を持つ」のが基本です。

 空想や妄想に留まらない霊感を得たいのであれば、「声に耳を傾ける」ことのほかに、「視線を感じ取る」練習をするのが早道です。
 誰かが自分を見ている時には、何となく「見られている」気配がするものですが、霊感はそういう時の感覚が強くなったものです。
 もちろん、空想や妄想との境目は曖昧ですし、多くの人は「自分を特別な存在だと思いたい」という気持ちから、自身の霊感を信じる傾向にあります。
 実際にそういう感覚が伴っているなら、声を聞き、姿を見るだけでなく、頻繁に画像にも写ります。
 慣れて来ると、何らかたちには現われていなくとも、視線を感じるようになります。

 留意点は次の通り。
・「守護霊」「指導霊」のような存在はありません。人の姿を取る霊は、総て幽霊であり、執着心そのものです。善霊はどこにもいないのです。
・同調し、取り込んでしまわぬ限り(=同化)、悪影響が生じることは稀です。相手との間に明確な線を引く意識を持つことが肝要です。
・どのような信仰でも良いので、幸福と破邪を信じること。
 強く信じることで念の力が生まれます。
 人格神はいませんが、便宜的、代替的に神仏を信奉しても構いません。特に何もなければ、不動明王を拝むとよろしいです。咄嗟の時に役立ちます。
・物理的現象が現われ始めると、どんどん先に進みます。酷い時には、テーブルの上の皿が動いたりします。そこからは進行を止められなくなってしまいます。
・こういう感覚は普通に暮らしていくのに必要ではなく、逆に煩わしいことが増えます。知らなくともいいし、知らないほうが無難です。
・他の人は理解してくれません。大半の自称霊能者は想像や妄想を語っているだけです。「仲間はいない」と思ったほうがよろしい。

 以上を簡単にまとめると、次に帰結します。
・深く立ち入るのは止めた方が無難。
「そんなものは存在しない。死ねば終わり」と思うほうが気楽に生きられます。実際に、霊界に入ることは「自我を失う」ことなのでで、かつての人生は消滅します。