日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎わりと鮮明に

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◎わりと鮮明に
 少なくとも3つは鮮明に出ています。
 髪が胸元まであるこの女性は、前回の参拝の時に、私の姿を隠した黒髪の持ち主だと思います。
 目を画面から離したほうが分かりよいです。

 目の前に「扉」があり、そちらに向かえば、総てのしがらみから解放されるのに、多くの霊はそうしません。どうしても、執着するものがあるのです。
 ま、執着心から解放されることは、すなわち、かつての人生が消滅してしまうことだと、分かっているのかもしれません。

 もはや条件が合えば、いつでも撮れるようになって来ました。ま、もっと鮮明に写ったのを出せば、一発で「死後の存在はある」と理解して貰えると思います。
 でも、執着心に凝り固まった表情は、とてもではないが、1分も見ていられません。
 私はもはや理解出来ているので、必要は無く、すぐに捨ててしまいます。

 追記)
 だいたいは、ひとつ前の撮影の時に、カメラの誤作動があります。
 ズームしていないのに、やたら接写している、等の誤作動です。
 そういうのも、「しるし」のひとつです。

 追記2)
 修験者の部分を追加しておきます。
 窓が開き、そこからこっちを覗いて見ています。やはり、私のことが見えるのです。
 「近しい存在だ」と思っているわけですが、実際、修行をした時の記憶がありますので、外れてはいないと思います。

 髪が肩までのこの女性も、時々画像に残る女性です。
 私と行動を共にしているのではないかと思いますね。時々、カーナビを操作するのはこの人です。
 別の女性(生きた)が近付くと、「面白くない」と感じるらしい。
 この視線を感じる人は、かなり感度の強い人なので、それなりに所作を学ぶ必要があります。
 普通の人はまったく分かりません。
 「何を言っているのか」と思うことでしょう。

 実際のところ、「目を瞑っている人には、何も見えない」ということです。
 かたちが崩れているのは、「自我が消えつつあるから」だということに気がつけば、見るのは姿ではなく視線だということが分かります。