「死後、ひとはどこに行くのか」をテーマに、具体的な証拠を揃える作業を展開しているのですが、これまでに分かったことを取りまとめます。
文章による記述をするには、さらに整理が必要なので、後日改めて掲載します。
まずは、「死後の存在はある」という証拠資料として、いわゆる「説明のつかない写真」を「自ら撮影する」ことを心掛けて来ました。
事実を確かめるためには、物証か、疑いのない状況が必要です。
「自ら撮影する」という条件が必要なのは、画像にせよ映像にせよ、「捏造が容易だから」ということです。
自分自身で撮影する分には、加工や修正が入り込む余地がありません。
留意点は次の通り。
・説明のつかないものには、「説明がつかない」と見なす。
「科学的思考とは何か」を学んだことのない者が浅い知識を振りかざして、まるごと否定することには、もはやウンザリ。説明のつかないことは現実に存在しています。
・「霊能者」「霊感の強いひと」「占い」的要素を排除する。
妄想や知識を並べ、脅しによって人心を操ろうとするこういう人種は、「死後の存在」を理解するための障害でしかありません。
霊感が強ければ、声は聞こえるし、写真にも写ります。録音音源や自分で撮った写真を提示できる人だけが、耳目を傾けるだけの内容があると言えます。
ましてや「当てた」「当たった」などは何の意味もありません。
具体例を付けましたが、時々、「一発で存在を確信する」画像も撮影しています。ただし、度を越したものは、見る度に具合が悪くなるので、即座に捨てるようにしているのです。
その意味では、開示する分は、目を通してもほとんど影響のないものと言えます。
(正確には、「謙虚に眺める分には影響はない」ですが。)
・死者に敬意を示すこと。
こういうことの考究は、純粋に「事実は何か」を知ろうとするもので、ちょっとした好奇心やスリルを得ようという主旨ではありません。面白半分に扱うと、予想外のしっぺ返しが待っています。
もちろん、転載や流用は厳禁です。何が起きても責任は持てません。
幽霊は「執着心に囚われた魂」なので、原則として善霊はいないことになります。
(補足)
以下は個人的見解であり、他の宗教家や霊能者と同じ想像や妄想の類です。
「お祖父さんが見守ってくれる」
「守護霊と話をした」
これらは総てウソッパチです。
亡くなったお祖父さんがそのままの自我を保っているなら、それは悪霊です。
霊界に自我はなく、「守護霊」なるものはいません。自我を持つ霊は幽霊しかおらず、概ね「ほぼ悪霊」ということになります。
「ほぼ」というのは、亡くなった直後はしばらくの間、自我が残っているからです。
「守護霊」がいるなら、出して見せてください。存在を確認出来るのは、事実上、「幽霊」だけです。
幽界は基本的に悪霊で出来ているのです。
追記)
デジカメで撮影し、そのままメモリーカードに入れておくと、画像が壊れてしまうことがよくあります。撮影したら、HDに移して置かないと保存できません。
もっとも、保存してよいものかどうかをよく考えてからの話です。
見ると気分が悪くなるようなものは、すぐに捨てたほうが宜しいです。