日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎フェルメール展に行きたい

フェルメール展に行きたい
 上野のフェルメール展を見に行きたいのに、いつもとんでもなく混んでいるらしい。
 土日休日は長蛇の列で、平日の夜の終了間際でないと全然ダメだということ。
 人が引くのを待っているが、なんだか一向にそうならない。
 人気があるのですね。

 松下奈緒さんの出るテレビ番組で観たが、フェルメールは、奥さんの母親の生活支援を受けて、絵だけを描いていたから、働いたことがほとんどない。
 今、残っている作品は少ないのだが、大半が名作で、それだけ、じっくりと作品づくりに専念できたということだ。
 創作活動をする人は、なるべく「働かずに生活を安定させる」ことが必要で、そのためには「スポンサーを得る」のが早道となる。
 フェルメールは15人くらいの子供がいたというが、「孫を見せる」のを仕事のひとつと思っていたのではないか。

 ゴッホ辺りになると、境遇はまったく違い、弟が生活の面倒を見たらしい。
 弟の経済状態が悪化して、自分を支援してくれなくなると、ゴッホは「売春婦を彼女にした」という話だ。
 「彼女にした」は控えめな言い方で、実際は「ヒモになり面倒を看てもらった」ということ。
 ゴッホは創作のために人生を捧げたから、一度も裕福に暮らしたことが無い。売春婦に捨てられてからは、やはり貧困のまま、30台で死んだ。
 そういう人の作品を、今は資産家が何十億も出して買っている。本当に皮肉なものだ。
 つくづく「生きている時に才能を見つけて、支援してやれよな」と思う。そうすれば、もっと多くの「自由な作品」を観ることが出来ている。
 ま、他人が買えないものを「買える」ってのが、金持ちの存在証明だ。皆がなにがしかの人生の証明を欲している。
 「金を惜しまず」と「金にあかせて」は紙一重だから、審美眼の良さが仇となり、「バカ」と呼ばれるリスクもある。

 かたや、個性の立った創作者は、その時代の流れとは違う目で観ているので、生存中に評価されることは無い。
 ピカソとかムンクみたいな、誰にも分かりやすい作風の人だけが、生存中に売れている。
 抽象画を描いているが、実は具象画よりも分かりやすい。

 ところで、松下奈緒さんは、良家の子女で、背が高くて美人だ。これだけでも、十分に余りあるのだが、なおかつ女優で、ピアニストというおまけがついている。
 「どれが本来の自分だと思うか?」という質問には、たぶん、あっさり「ピアニスト」と答えるだろう。
 おいおい。
 恵まれた者は、自身が恵まれていることを意識しないので、「てらい」も「躊躇」もなく、率直に自身を眺める。
 一般の女性にとっては、腹立たしさを通り越した存在だろうと思う。どれかひとつでもあれば十分なのに。
 「三つも四つも持ちやがって」
 松下さんは二十台の時に、自分の稼ぎだけで2億円くらいの「質素な家」を建てている。

 男目線から眺めると、もちろん、やっかみ的なものは何も無く、やはりステキに見える。スポーツをやったことがないのに、お尻がきれいだから「ケツのラインをどう保っているのか」みたいなことの方が気になるわけで(苦笑)。
 身長が174センチだし、何所に出ても堂々としていられる。女子バレーの選手の中に入っても、たぶん大丈夫。
 あるいは、あの和田アキ子さんを上から見下ろす。

 でも俺が女子なら、やはりこう思う。
 「せめてアトピーでいつも肌を掻き毟っていればいいのに」
 「彼氏が不良で、やたら金をせびるとかで困っていればいいのに」
 「どうか水虫になっていて」
 そういう気持ちも分からんでもないよな。

 お正月を過ぎたら、平日の夜にこっそりとフェルメール展を観に行こうと思う。帰路は上野の定食屋かなんかで、親子丼(おやこどーん)を食ったら、昭和の気分に浸れそうだ。
 駅や展示会の「人込み」に入ることは、俺には他人には無いリスク(あの世系の)があるのだが、そんなことで躊躇してはいられない。