◎年頭の参拝(363)
昨夜、声が聞こえたりしましたので、今日は高麗神社に参拝しました。
まだ忌中ですので、初詣という意味(ハレ)ではなく、たまたまこの時期だったという解釈になります。
まあ、松の内も過ぎていますので、そこは許して貰います。
8日を過ぎた平日の境内は、参拝客もかなり落ち着いており、露店も閉まっていました。
たぶん、週末には営業するので、屋台自体はそのまま設置してあるのでしょう。
オヤジ石はほとんど判別できませんでした。いつもと同じ位置ですが、顔に見えません。
神殿前でも、特に異常なし。
お正月で、数万人かの参拝客が訪れたことが、少なからず影響するようです。
拝礼の仕方もようやく習得しました。
神殿前で、まず両手を拡げ掌を上に向けた後、奉納銭を箱に入れ、その後に通常の二拝ニ拍手一礼となります。
最初に掌を広げるのは、エネルギーを交換する目的で、持参したものを離し、変わりに受け取る所作です。
日中、日の光に向けて行う拝礼を、神殿でもやるということ。
これでだいぶ違うような気がします。
屋台が出ているので、トラはいません。
冬場はあまりいないと分かっているのに、やはりカツオを温めて持参しました。
姿が見えないと、トラはもはや高齢でもありますので、少し不安になります。
いつか参拝の折に、「トラは亡くなりました」みたいな掲示が出たりするのを恐れているわけです。
それを想像しただけで、「俺が愛する存在がどんどんいなくなって行くなあ」と気落ちしたのですが、すぐに考え直しました。
それは、とりも直さず、自分の方が「生き残っている」という意味でもあります。
年齢的には、もはや後ろのほうに辿り着いているので、今度は私が誰か他の人の支えにならねばならないということです。
なるほど。