日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎「あと二日」

◎「あと二日」
 声に「あと三日」と言われてから一日経ったので、「あと二日弱」か「一日半」になった。
 何が「あと」なのかは分からないが、ひと月前に死神か悪霊みたいなのに全身を掴まれていたから、焦点は、それが「この世で過ごす時間」かどうかということだ。

 昨日は体調が悪く、病院から帰ると、それからほぼ丸一日寝ていた。
 体が良くなることは無く、もはや下がって行くだけの人生だ。
 「死神」サイドに寝返って、仲間になることにしたのだが、そんな対応が役に立つものなのか。
 念のため、このひと月の間に、ある程度、身辺整理をしている。
 昨日、息子に「結婚する時のために」と、息子用とお嫁さん用に金の指輪を2つ渡した。
 分かりやすい資産は、既に大方渡してあるから、父親の金庫はもはや空だ。
 息子には「なるべく売らずに、自分の子に渡せ」と伝えてある。

 「あと二日弱」はまだアリなのか。
 今さらジタバタしても始まらんが、何も出来ず横になっていることほど、気が滅入ることはなし。
 起きれたら、また神社に行き、こう祈願しようと思う。
 「これはと思う相手に渡してやるから、それで手を打ってくれ」
 私が渡すヤツは、かなりキツイぞ。
 かたちになって現れるから、本当に怖ろしい。
 写真に写るだけでプレッシャーになるのだが、自分には見えているのに、他のほとんどの人がそれと認識できなかったりする。
 でも、本人は回数を重ねているうちに、ごく小さい「端っこ」だけでもそれと認識出来るようになる。
 「自分しか分からない」こと自体が、もの凄く怖ろしい。
 目の前に座る人の後ろに、険しい顔をした女が立っているのに、自分しかそれが分からない。

 と言っても、一般的にはただの妄想だ。
 今は「どうにか切り抜けられる」と考えねば、正気を保てない。

 この数日をうまく切り抜けられるなら、その後は、ほとんど異変が起きないと思う。
 何故なら、「もはや仲間」になっているので、「あえて己の存在を知らしめる」必要が無い。
 ま、いずれまた出て来るとは思う。
 人は三日経つと、苦しいことや嫌なことを考えないようにするから、「忘れるな」と釘を刺すためだ。

 過去二十年近くは、深夜2時頃に、幽霊が玄関のドアを叩いた。これはその都度、記録を残して来たから、信憑性は高い。
 昨年からは、家の中に入っており、時々、目視もするようになった。
 今月からは「共に暮す」ようになるかもしれん。ここは「同じ体の中で」という意味だ。

 もちろん、それで何かをするわけではない。目に見える現象に現れるのは、小説や映画の中の話で、総てが作り話だ。霊が取り憑くのは専ら「心」で、自分と似た感情や嗜好を持つ者の気持ちを増幅させる。
 今の感情が自分自身のものかどうかは、大概の人は区別できない。

 今を越えられたら、少しずつ生きている者の「お導き」を始めようと思う。
 ソコソコは「出して見せられる」ので、話は早い。
 善行のようだが、「現界のツケは死後に払う」から、十分な内省無しに得る「安らぎ」が、果たして良いことかどうかは、死んでみなければ分からない。
 現界と幽界はふたつでワンセットになっている。

 ま、総てが「死に掛け」の者の妄言に過ぎない。
 このジャンルでは、心に何が起きても、法律には触れぬから助かる面もある。

 ここをうまく切り抜ければ、次はやはり12月だ。
 こういうのが死ぬまで終わらないし、死んでもそれは続く。
 死ぬことは「終わり」ではなく、ただの中間点だ。生きている時に楽をした者は、死後に代償を払う。
 人生がうまく行かず苦しんだ者でも、捨て鉢にならず前向きに生きれば、幽界をすんなり通過出来る。