日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

やめましょうね

ホラー映画を楽しむような気持ちで、いわゆる「心霊現象」なるものを珍重するのはやめましょうね。
世の中には、スリルを味わいたくて、人影が写りこんだ写真を探し集めている人がいますが、非常に危険な行為です。
ビルの屋上で端に立ち下界を眺めると、恐怖感と同時に快感のようなスリルを味わうことができますが、1つ間違うとそこから落ちてしまいます。

あるいは、子どもの時、火というものを初めて眺め、手を伸ばした経験がどなたにもあると思いますが、この時、近づくことができるのは「熱さ」を感じるところまでで、不用意に手を突っ込むと大きな火傷に繋がります。それと全く同じです。
自分の意思で引き返すことができるのは、「自然な霊現象」(影響の少ないもの)くらいまでで、興味本位でその先に近づこうとするのは極めて危険です。

ただし、遠くからだけ眺めていると、火がどんなものかはわからない。
比較的影響の少ないオーブ写真をブログに載せたりするのは、その辺の理由です。

「死は消滅(帰無)だ」と考える人は多いですが、死後の世界を否定する理由の多くは、「証明できない」、「科学的でない」ということです。
しかし、「原因があって帰結が生じる」というのが、科学(という哲学)の基本的な認識方法です。
その意味、科学的・論理的に考えると、「無」から「有」はゼッタイに生じない。
方程式を例にとるとわかりやすく、ゼロ(無)は乗除しようとしても変化は生じない(もしくはできない)ため、ゼロ(無)から1(有:生)が発生するという矛盾を解決するためには、式外の存在(すなわち神)から+1を付与されるか、あるいは元々ゼロではなかったと見なすしかありません。
換言すると、自分が生まれる前にもなんらかの存在があったとみなすか、逆に「生」が「無」のまま、すなわち自分が今生きていることも意味が無いとみなすのが、それこそ科学的なレトリックになります。
今の自分の存在を「無」そのものとみなす人は果たしているでしょうか。
結論はただ1つ、生死は境遇・状況の違いで、存在は継続するということ。
ここからは推定であり想像になりますが、生死を隔てるのは、孤立した自我の壁の有無ということのように考えています。

第六感の鋭い人の中には、そんな理屈以前に、「自分に起こっているこの現象こそが実存だ」と感じている人も多いことでしょう。
日常的に多く悩まされるのは音や声で、物理的には存在しないはずの物音が聞こえたりします。
これが自分の思考と混じり、「自分は発狂しつつあるのか」と思うことも多いはず。
「自我を守る壁」が低い状態が、第六感が鋭いということなので、それは心が病んでいる状態と非常に近いことになります。
「この自分が果たして本物の自分自身なのか」ということで悩み、第六感の所在はとても「能力」と呼べる代物ではなく、むしろ「迷惑」だと感じる人のほうが多いのではないかと思います。

私個人としてはまさに迷惑そのもので、声に悩まされ、自分の正気を疑うことが時々あります。