日刊早坂ノボル新聞

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「九戸戦始末記 北斗英雄伝」 其の十 神命の章 あらすじと解説

其の十 神命(しんめい)の章

<あらすじ>
 一戸を脱した小平左近は田子にいた兄・月館隠岐に事態を報告した。隠岐は直ちに馬を駆り、三戸留ヶ崎城の南部信直の元に赴く。隠岐は一戸奪還の重要性を説き、信直から攻略軍の指揮権を与えられた。
 三月十三日には、まず七戸家国が羽立館にいた津村伝右衛門を攻め、この館を落とした。津村は伝法寺館に移り、防戦に努める。篭城のまま夜に至り、津村が城を出て血路を開こうとした時、七戸軍は包囲を解き、撤収した。
 同日、櫛引清長は西進を開始し、高橋館を落とし、苫米地館を包囲した。苫米地館主の苫米地因幡は降伏をせず徹底抗戦を決意する。乱戦の中、櫛引勢は突如として兵を退き去ってゆく。
 五戸又重館には、九戸実親が騎馬二百をもって説得に赴いたが、館主の木村伊勢は政実の鎧を身に着けた実親を恐れるあまり、話し合いに応じず突如として攻撃を開始した。
 この三城攻撃の知らせが届くと、鳥海にいた三戸軍は直ちに一戸城を包囲する。城内に手引きする者があり、一戸図書が落命し、城は三戸の手中に落ちた。
 九戸政実は七戸家国に一戸奪還を命じ、自らは疾風や天魔源左衛門らを従え、密かに鳥海の南部信直の許を訪れる。自陣内に政実が現れるとは思ってもみなかった信直は、心の底から仰天するのであった。

<この章の新しい登場人物>
◇登場人物氏名(登場順。○は豊臣・三戸側、▲は九戸側、□■※は氏名不詳に対する仮名または創作上のキャラクター。黒は九戸側、※は何れにも属さない者)

○楢山帯刀:楢山帯刀佐義実。九戸郡の中にあって、数少ない三戸方の地侍。浅水城の南氏と姻戚関係が有り、遺恨があったためと見られる。
▲■浄法寺左京亮重久:「左京亮重久」は便宜的に付けた仮の名。浄法寺修理重安の「弟」の名は、九戸に与した料で、浄法寺氏の系図や南部家側の史料からは悉く削除抹消されている。
 浄法寺氏が代々名乗った官職名は、修理、帯刀、右京亮・左京亮が多く代が替わるごとに交互に襲名している。
 なおこの修理弟の名として「重行」を宛てているものもあるが、出典が明らかでない。
追記)修理弟の名は「重行」に改めるものとしました。
 
○東中務:東中務尉利義(直義とも。後の朝政)
○木村伊勢:木村伊勢守秀清。五戸又重館主。
▲■天魔覚右衛門(知仁太):天魔源左衛門(弟の鳶丸)の息子。二十二歳。九戸籠城者の中には「天魔館源左衛門」、「同覚右衛門」の名が見える。通称の「知仁太」は創作。
○福田治部:二戸福田館主(現在の青森県三戸郡南部町大字福田)。子が福田掃部介(かもんのすけ)で九戸方に参じ、孫が福田治部少輔祐明(すけあき)で南部利直家臣(五百石)。
○下斗米将綱:二戸上・下斗米を領し二百六十石。この時点では十七歳。

<ひと口コメント>
いよいよ、かの有名な三城攻撃に入ります。九戸の戦の中で、最大の謎がここにはあります。
「南部根元記」等、諸資料を見比べても、いずれも「絶対にありえないこと」が書き連ねて有ります。
当時の移動手段は、馬と徒歩でしたので、必然的に一日の移動距離が限定されますが、諸資料に書かれていることは、四輪駆動車で移動しないと不可能なことばかりです。
「いつ」、「どこで」、「誰が」、「何をした」かのうち、どこに相違があるかということについて、かなり考えさせられましたが、結論は「ほとんどが後世の学者による捏造」だということに落ち着きました。
 御用学者は机の上でのみ思考しますので、実際に馬で移動したり、城の周りで数千人の軍勢を整えるのに、どれくらいの時間が必要かなどには、気配りが及んでいません。
 本作では、主要なことがらを踏まえつつ、当時の移動手段でぎりぎり可能な時間範囲を想定しましたので、古資料の記述とは若干の相違が生じます。

一戸城奪取の後、すぐ近くの鳥海にいた南部信直は、なぜか大急ぎで三戸に帰ります。北秀愛の手勢のみを残し信直が去った理由として、「恐れおののくような事態・事件」があったと仮定し、二人が鳥海で対面したという創作箇所を加えました。

なお諸資料には、一戸攻めの際の南部信直の布陣を鳥海「月館城」としてありますが、この時点では月館隠岐の所領にはなっていません。鹿角毛馬内領の月館村を本領とした月館が、この地を領するようになるのは九戸戦以後なので、鳥海古城と表記しました。