日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎穏やかな場所に還る

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「宿谷の滝」で撮影

◎穏やかな場所に還る

 画像は「宿谷の滝」のもの。地名を書いてもこの地の住民に迷惑が掛からぬようになった。

 初めて訪れたのは、平成二十七八年頃になる。

 当初は何となく「誰かに見られている」感覚があった。

 だが、そういうのはあまり気にしない。

 

 家人を連れ、訪れるようになったが、次第に異変が始まった。

 その多くは「声」だ。

 週末には子供連れが沢山来るが、平日にはあまり人が来ない。

よい観光資源なのに見物客が割と少ないのは、駐車スペースが少ないせいもある。

 

 冒頭の画像は平成二十八年のものだ。枚数を撮影したので、初めから終わりまでを時系列的に追うことが出来る。 

 入り口から参道に入った時には、ほとんど何も出ていないのだが、滝周辺に着くと白い煙状の玉が写るようになった。

 数分の内にその数が増えるのだが、ある一瞬から総て消失する。

 結論を先に書くと、こういう場合の「煙玉」は、「空気」と「水気(水蒸気)」、「光」の関係によって起きる。気圧に変化があり、周囲に割と豊富に水がある時に写りやすい。

 高地に上ったり、森の中に入ったり、地下室や洞窟に入ったりした時に、時々写る。

 この手の画像は誰のアルバムにも、幾枚か混じっていると思う。

 私は「蒸気玉」と呼んでいるが、基本的に自然現象だ。

 

 たまに自然現象とは言い切れぬケースがあるが、形状が少し異なり、玉の周囲に放射状の筋が伸びている。正確には「内側から外側に伸びている」のではなく、周囲の空中から筋が集まり、球状に結集する。

 この手のものを「説明のつかない煙玉」と分類している。

 「説明のつかない煙玉」には、内部に「眼」や「顔」が見えることがある。

 この他、「説明のつかない煙玉」が現れる場合には、他に「電線か稲妻のような光が走る」ことや、「煙が充満する」、「(対象物被写体の)かたちが著しく歪む」という特徴がある。

 

 この滝には、以前はあの世に繋がる「穴」みたいなものが開いていて、その前では犬が固まったり、あるいは気が違ったように吠えていたりした。その方向に何かがいたらしい。

 常時、人の話し声が聞こえていたが、現実には見物客がいなかった。

 

 最近では、声も聴こえぬし、不審な出来事がまったく起きない。

 ご供養はして来たが、そのせいではないようだ。

 もはや「穏やかな場所」になっている。

◎夢の話 第972夜 味噌焼き握り

◎夢の話 第972夜 味噌焼き握り

 八月一日の午前四時に観た夢です。

 土曜午後から体調が崩れ、今日の午後まで寝込んでいたが、これは朝方にトイレに起きた時の直前の夢になる。

 

 どうにも食が細く、何も食べたくない。

 「夏場に食べずにいたら、秋口には起きられなくなる」

 何か食べられるものを探さねば。

 患者が食べるものと言えば素麵とかお粥だが、そんなのは余計に食べたくない。

 果物は食べられぬし、煮野菜なら「少々」だから、素材を選ぶのもひと苦労だ。

 

 「こういう時にお袋はどうしたっけな」

 母の患者歴は六十年近くだから、自身の経験で「凌ぎ方」を見付けていた。

 ここで母のことをあれこれと思い出す。

 母の実家は旧家で、建物自体が百三十年前に建てられたものだ。

 常居の天井は普通の家の二階の天井の高さにある。

 土間には竈があり、囲炉裏が家のそこここにあった。

 「台所の囲炉裏じゃあ、よく足置きで寝たよな。死なずにいて良かった」

 四歳の私は炭の焼ける匂いが好きで、囲炉裏の中に入って足置きに寝そべった。

 向かい側には曽祖父がいて、一升瓶を抱えて茶碗で酒を飲んでいた。

 そのまま居眠りをすることも多かったが、よく一酸化中毒にならなかったと思う。

 まあ、昔の家は隙間があったし、空間が広かったから、ガスが充満することもない。

 

 竈の近くには七輪があり、それに網を載せて、魚の干物などを焼いていた。

 すると、すぐに何かが焼ける匂いが漂って来た。

 「これは味噌が焦げる匂いだ。焼きおにぎりを作っているのか」

 母の背中が見える。

 味噌焼き握りを作るのに、母は何かを擂鉢で摺っていた。

 「なるほど。白味噌赤味噌を合わせているのか」

 ご飯を炊き、炊き上がったら少しだけ冷まし、合わせ味噌を塗り、炭火で焼く。

 「炊き立てのご飯を使い、炭火で焼くから美味いのだな」

 なるほど。母のレシピが少しだけ解けた。

 

 「これなら、ひと粒ひと粒のご飯の味が分かる」

 母の実家では米も味噌も自分の家で作っていたから、母は何と何を合わせればよいのかを経験で知っていたわけだ。

 「忘れぬうちに起きよう」と覚醒。

 

 目覚めてすぐに取り掛かったのは、「焼きお握り」作り。

 味噌はスーパーで買う一番安いヤツで、グルタミン酸を添加したものだ。

 だが、炊き立てを仕立てて焼くことで、普段とは違う味になる。

 七輪はあるのだが、これを使うと焼け焦げる匂いが周囲に漂う。少しでもそれを感じると、消防署に電話するバカがいる。(そういうヤツに限って自分ちの庭でバーベキューをして騒ぐ。)

 

 二日ぶりに食事をした。

 母は有難い。

◎二十八日の画像の再検討

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令和三年七月二十八日撮影

◎二十八日の画像の再検討

 二十八日の画像を再検討してみたが、やはり女の右手のよう。

 こういうのは、割と頻繁にあるから何とも思わぬが、気分の良いものではない。

 だが、怖がらずに、きちんと向き合えば、取り立てて驚くようなことは起きない。

 私の場合は、大半が「助けて欲しい」という気持ちで縋り付く。

 ゆっくりお焼香をして、多少なりとも慰むまで付き合うことにした。

 

 手のところに眼が開いているのは、「お前はこの自分が見えるのか」と私に問うている意味だと思う。

 まだ実体化の途中で、いずれ右下(私の右後ろの下部)に「顔」が出る筈だった。

 私の背中から腕に右手を回して、その場に留めようとしていると思う。

 この神殿の前では、沢山の人々が念を送っているから、霊素(「幽界の霧」の素になるもの)の流れのようなものが出来ている。

 それに従えば、いずれ執着心を解けると思う。

 

 実際のところは「正直分からぬ」のだが、何百回も同様の経験をしていれば、何となく想像がつく。もちろん、あくまで想像であり妄想の域だ。

 

 

◎夢の話 第973夜  本当の自分

◎夢の話 第973夜  本当の自分

 三十日の午前四時に観た夢です。

 

 我に返ると、俺はPCモニターを前に椅子に深々と腰かけていた。

 どうやら居眠りをしていたらしい。

 「ここは・・・」

 俺が居たのは、摺りガラスのフェンスで区切られたブースの中だった。

 「研究所で仕事をしていたのか」

 ここは小石川の坂の途中にある七階建てのビルの五階だ。俺は大学の講義が無い時には、研究員として勤務していたのだった。

 でも、それはもはやウン十年前の若い時の話だ。

 

 「でも、もう昔の話だ。今の俺はもう死に掛けのオヤジジイだもの」

 あれから結婚して、子どもを作り、という、ごくありきたりな人生を送って来た。

 「そもそもこの研究所は建物自体がとっくの昔に無くなっている筈だが」

 それなら夢だよな。俺は今、夢を観ているのだ。

 俺の場合、夢の中で「自分は夢の中にいる」と自覚することが時々ある。このため、意に添わぬ夢の場合は、途中でその夢を終わらせることも出来る。

 半覚醒の状態だとも言えるが、実際、俺はその夜の最後に観た夢の内容を、ほぼ百㌫記憶したまま目覚める。

 

 しかし、今の自分が置かれた状態には、妙なリアリティがあった。

 ブースの中で煙草を吸うから、壁に煙草の臭いが染みついている。

 試しにボールペンの先を、左手の薬指に刺してみたが、夢とは思えぬほどの痛みを感じた。

 「おいおい。まさかこっちが現実だったりしてな」

 二十台のこの俺が現実で、オヤジジイの俺は自分の将来のことをあれこれ想像していただけなのか。

 すると、女房や子供たちの顔がゆっくりと意識から遠かって行く。

 

 まさか、数十年の人生の総てが想像の産物なのか?

 「こりゃ確かめる必要があるな」

 そkどえ俺は椅子から立ち上がり、ブースの扉を開けた。幹部職員の趣味なのか、所内は米国の映画に出て来るようなブースで仕切られている。あの当時、あるいは今なら斬新なつくりだ。

 しかし、所内には人が一人もいなかった。

 時計を見ると、ちょうど昼時だから食事にでも出たのか。

 「誰かがいれば、これが事実かどうかが分かったのに」

 モリタカ・チサト似の美人事務員に、「やあだ。居眠りでもしてたんですかあ」と揶揄われる姿を想像したが、誰もいないのでは仕方が無い。

 

 「じゃあ、外に出てみよう」

 ビルの外に出ればはっきりする。

 そこで、ブースから出て、研究所の入り口に向かった。

 大扉を開き、廊下に出ると、エレベーターがあり、その向こうに隣の会社がある筈だ。

 数歩前に進んでみる。

 「ありゃ、先が無いぞ」

 エレベーターのところまでは記憶にある通りなのだが、そこから先は灰色の霧に覆われていた。

 高山で出るような、入道雲のようにもくもくと動く霧だ。

 「廊下の先が無くなっている」

 こりゃまたどうしてこんなことに?

 

 答えはすぐに分かった。

 「なるほど。俺はもう死んでいるということだな」

 生きている間、人は自身の存在を五感によって確認する。触感とか痛み、視角や聴覚を通じて自己の存在を知る。

 ところが、いざ死ぬと、その瞬間に五感は失われてしまう。

 自意識を確認出来るのは、自身の持つ感情と記憶だけだ。

 

 そこで何が起きるのか。

 物的環境との接点を失った自我(魂)は、外界を自らの記憶と感情を基に創り出してしまう。

 「要するに、このリアリティのある現実は、俺のイメージで出来ているというわけだ」

 「若い時の自分」も「オヤジジイの自分」もいない。

 それらに置いて残した記憶と印象が、今の世界を構成しているのだ。

 「ってことは、この世界は時間の経過と共に消えて行く」ということだ。

 既に俺は脳を失っているから、合理的にものを考えることが出来ない。五感を通じて、過去の記憶を呼び覚ますことも出来ない。

 そうすると、感情によって記憶を支えぬ限り、少しずつ自我が崩壊してゆくということだ。

 

 いずれこの廊下の霧が、このビル全体を侵食し、ついには俺をも飲み込んでしまう。

 そして、「俺」という存在が完全に消え、「霧」を構成する幾粒かの水滴に分解してしまう。

 

 「おいおい。それじゃあ、どうやってこの状態を切り抜ければいいんだろ」

 きっと「俺」は死んでいるが、まだ俺の自我は存在している。これが分解すると、「俺」は跡形もなく消えて失くなってしまう。

 どうにかせんと。

 「ま、きっと手立てはあるし、時間もきっと残っている」

 そこで、俺は廊下の窓から外を眺めることにした。

 何かしらヒントがあるかもしれん。

 

 ビルの真下には、なだらかな坂道がある。

 陽気の良い日で、日光を浴びつつ、人や車が行き来していた。

 窓を開けて、身を乗り出して下を見ると、ビルのすぐ前を母子が通り過ぎようとしていた。

 母親は俺と同じくらい、子どもは女児で三四歳だ。

 女児が母親に何かを話し掛けている。

 耳を澄まして聞くと、この日の行先を訊ねているのだ。

 「お母さん。今日はどこに行くの?」

 「お父さんの会社に行くのよ」

 母親の声が重い。

 すぐに母親の心の内が伝わって来る。

 夫は会社の経営者だ。あまり家には戻って来ない。

 いつも遅いし、会社に泊まることも多い。

 母親の心中では夫に対する疑念が渦巻いていた。

 

 次の瞬間、俺はその母親の後ろに立っていた。

 目前の母親が頭の中で考える。

 「もしかしてあの人は浮気をしているのかもしれない。そんなのは許せない」

 そこで俺は母親の耳元で囁いた。

 「きっとそうだよ。打ち合わせに行くと言っていたけれど、きっと女に会いに行くんだわ」

 母親がびくんと身を震わせた。

 「もしそうなら絶対に許せないわ。この子のためにも」

 「そうだよ。まずは何としてでも、この子を守らないと」と俺が囁く。

 もう少し背中を押さねば。

 「仕事だと言っていたけれど、きっと二人で会っているのよ」

 母親はベッドで睦合う男女の姿を想像し、怒りを滾(たぎ)らせ始める。

 

 ひとの胸には白い煙が渦巻いている。これは感情が作り出すあの「霧」の一部だ。

 その母親の煙が赤く色を変え、大きく波打っていた。

 俺はその波の合間に手を入れ、自身を煙の中に押し入れた。

 「ああ良かった。これで私も生き延びられる」

 まずは私の夫を懲らしめに行かないとね。

 ここで覚醒。

◎「顔無し」になる理由(592)

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令和三年七月二十八日撮影

◎「顔無し」になる理由(592)

 月末はあれこれと忙しい。とりわけ昨年からは毎月やりくりが大変だ。

 この日も外出したので、帰路に神社に参拝した。

 もう私の「秋」は始まっているから、よりよく観察して置く必要がある。

 何せ、私の寿命自体はきっと既に終わっている。

 

 まだ正午頃なので、陽が高い。撮影環境としては、少し時間帯が早いのだが、気にしては居られん。

 赤外線撮影を織り交ぜながら、自身の様子を観察することにした。

 画像を開いてみて、眼を止めたのは、私の「顔が無くなっている」画像だ。

 手や足が消えるのと同様に頭が消えてしまうケースも時々ある。

 もちろん、目の錯覚と言う場合も多いから、前後の状況を確かめるのは当然だ。

 

 前の二人の左後ろに私がいるのだが、頭部にさらに背後の景色が写っている。

 よく見ると、顔の部分に煙玉状のものが出て居り、その影響だと思われる。

 その直後の画像では、その煙玉状のものが右手に移動してかたちを変えていた。

 「一体、これは何?」

 

 拡大して確かめると、どうやら女の手指のようだ。「女」だと思うのは、指が細いから。

 真後ろの空間(光)も歪んでいるから、留意しておいた方がよさそう。

 ま、肩に顔が載っていたりすることもあるし、だからと言って、すぐに何かが起きるわけでもないので、驚くほどのことはない。

 むしろ、胴体のどこかに集中して煙玉が出るよりは、まだましな方だ。

 具体的な患部に煙玉が出るケースは、何かしらの「バランスの欠如」を表していることがある。

 過去に幾度か、病気になる直前に、その患部付近に煙玉が現れた。

 だが、こういう時には、割と鮮明で、かつ「偶然生じたものではない」と分かりやすくなっている。

 

 人影(手)に掴まれたりすることも割合起きるのだが、「何となく惹かれて近づいて来る」ケースや「助けてを求める」ケースが殆どだ。

 日頃、「(お焼香をして)慰める」習慣を持てば、幽霊が長く留まったりはしないものだ。

 もちろん、初めのうちは驚いた。

 ぼんやりしている分にはともかく、アリエネーくらい鮮明な時がある。

 「これから一体どんな凶事が起きるのか?」と不安になったりするわけだが、案外何も起きない。

 いつも記す通り、「怖れぬこと」「敬意を示すこと」「好奇心から近づかないこと」などの決まりごとを守れば、問題が生じることは少ない。

 もちろん、大仰なお祓いも必要ではない。あの世を理解し、きちんと向き合えばいいだけで、何事も自力で対処するのが基本だ。他力本願的に職業祈祷師を頼んで力で追い出しても、本人の生き方が変わらぬ限り、繰り返し寄り付く。

 自身がそのままでいる限り、終わりはないわけだが、それは死んだ後も変わらない。むしろそっちが本番になる。

 死後は思考能力の大半を失うから、今度は「自身を見つめ直す」ことが出来なくなる。

 こうして、当てもなく彷徨う幽霊が各所に現れることになる。

 執着心に囚われ、生前の姿を留めている者でも、次第に自我が崩れ、消滅していくが、これを嫌い、他の者と同化し合体することで延命(幽霊としての)を図ろうとする者も居る。

 「憑依」という言葉に似ているが、実態はかなり違う。

 あくまで「同化・合体」で複数の自我(自意識)が合わさって、ひとつになる。

 最初は別々だが、いずれも同じ「私」という意識を保ち続ける。

 その対象は「生きている者」であることもあるのだが、ほとんどが他の幽霊だ。

 幽霊は別の幽霊を食って命(この場合は自我)を繋いでいる。

 

 神殿を去る時に、自身の肩越しに後ろの様子を撮影したが、「女」はそのまま残った模様だ。

 ちあみに、赤外線カメラの場合、ガラスの向こうの景色は画像に写らない。この場合は、ガラスに反射した外の様子だけが写る。

 この時、外に居たのは私一人で、こういう場合には、例えどんなに不鮮明でも、人影があればそれは幽霊だ。「気のせい」でも「霊感」でもなく、合理的な判断になる。

 

 神殿は人々が「感謝の気持ちを伝える」あるいは「念を送る」ところなので、圧力(もしくは波)が生じている。その流れに背中を押されて、進むべき道を辿れば、自我を解放し寛解に到達できる。

 きちんと「あの世」を理解すれば、信仰によって迷いが少なくなる。

 もちろん、単にしきたりに従って神仏に手を合わせるだけでは、何の役にも立たない。

 知識で解決できることは少ない。

 

追記)異変(幽霊)の現れるプロセス

 1)最初に霧のようなもやが出て、2)ロープが触手のように伸びて来る。次に3)そのロープが煙玉のように丸くなって、人型か人の一部に形を変える。

 こういうプロセスで幽霊が実体化する。

 別のパターンでは、1)空気中から放射状に筋が伸び(動きは逆で集まっている)、2)その白い筋が丸まって、煙玉になる。この場合は人型にはならず、煙玉の中に顔が現れる。

◎同じ女なのか  (過去の振り返り)

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令和元年から二年にかけて現れた「大きな女」

◎同じ女なのか  (過去の振り返り)

 数か月から半年くらいの間、同じ幽霊が姿を現すことがある。

 場所も状況もかなり違うから、その都度、単体として眺めているのだが、実は同じ者だったりするようだ。

 

 幽霊がひとに寄り付く時、その相手に気付かれぬように、極力身を隠す。

 その場にいる者と似た姿を取ったり、その相手に似せたりする。

 写真を撮った時に、一枚の画像に「同じ人が二か所に映ったりする」ことがあるが、これはこういう背景がある。

 主な目的は「同化と合体」だと思うが、同一化のプロセスの中で姿かたちも同じになるステップがあるのかもしれない。そこは未知数の域になる。

 

 令和元年から二年の間、私の周りに「巨大な女」が姿を見せていた。

 画像に残る最初の事例は、某所の花畑だ。

 家人を望遠で撮影したのだが、家人の体を「巨大な女」が通り過ぎるさまが写っていた。

 身長が二㍍近くあるように見える。

 ジーンズのジャケットのような上着を着る後ろ姿が、この手の画像にしては分かりよい。

 ピントが合わぬのは、カメラの感度の境界に迫っているからで、自動ピント装置が「どれをターゲットにするか分からなくなるためだ」。

 なお、こういうのも幽霊画像の判断の要素だ。うまくピントが合わず、鮮明には写らぬことが多い。

 

 二枚目は令和二年の二月で、前の画像から八か月後のものだ。

 神殿の前で撮影すると、前の参拝客の耳元に「巨大な女」が顔を寄せ、何事かを囁いている。

 これは、ガラス映像ではなく、実写部分だから、かなりレアなケースだ。

 (相当に「強い」という言い方も出来る。)

 光の強さと照射角度により、「この世ならぬ者」が写ることがあるわけだが、たまたま日光の角度とカメラを向けた方向が適合したようだ。

 

 興味深いのは、「体の大きさと髪型が似ていること」だ。

 もしかすると、同じ者だったのではないのか。

 相違点は、前者が単なる「通行霊」であるのに対し、後者が明確な意図を以て女性参拝客に近づいていることだ。

 恐らくは、何らかの感情を吹き込んでいたのだろう。

 

 もう一つの共通点は「私が撮影していた」ことだ。

 以前なら、多少薄気味悪く感じたろうが、今ではもう慣れた。

 幽霊は「自分を見てくれる相手」の前によりよく姿を現す。

 

 幽霊には実体が「ある」とも「ない」とも言える。

 ガラス面に「二重に映る」ことがあるという意味では、「実体がある」と言える。

 一方、「サイズを自由に変えられる」という意味では、「物体」ではなく「光(と影)だけ」だとも言える。

 

 追記)「果たして今は近くにいるのかどうか」と思った瞬間、受話器が「ぴっ」と鳴った。この受話器は電源を繋げたままだが、回線を閉じてある。

 姿が見えぬのは「いない」ことを意味するわけではないということか。

 

◎着物の女(591)

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令和三年七月二十六日撮影

◎着物の女(591)

 今月の月末日は27日だったので、26日中にあれこれと支払いを済ませた。

 帰路には神社に参拝。

 やはり「秋」が始まっていたのだが、帰宅後、ウェブに記録を残すかどうか逡巡する。

 当人にしか分からぬ内容であれば、その記録に意味があるのか?

 そういう疑問があるからだ。

 

 だが、そういう発想は「受けるかどうか」という思考と裏表だ。

 自身を基準に取り、そこで起きた出来事を忠実に記す方がよい。

 よって、詳述は避けるが、「こういうことが起きた」と記して置くことにした。

 いずれ息子にも私と同じことが起きて来る。

 他にも数人だとは思うが、同じ世界を見ている人がいるので、そういう人の役に立つかもしれぬ。

 

 画像自体は曖昧ではっきりしない。「気のせい」にも届かぬ。

 だが、当事者の私は立場が違う。画像の議論などどうでもよい。

 その場で「直接目視している」という事実があるから、他の者にどう見えようが関係がない。

 

 いつものように神殿のガラスの前に立つと、誰もいない筈の内門の下に人が立っていた。

 白っぽい着物を着た「女」が私の後ろにいて、こっちを見ている。

 (後で分かったが、薄い草模様の柄が入っていたようだ。)

 すぐに赤外線カメラを出し、同じ位置で撮影したが、気配のみで姿をきっちり捉えることは出来なかった。「何かがいる」と見る人は少数だろうが、それはその場にいないから。

 理屈は分からぬが、きちんと目視する時には画像に写らぬことが多い。

 「誰もいないのに画像にだけ写っている」というケースの逆だ。

 

 赤外線カメラを使うと写る頻度が高まるが、幽霊は赤外線を放っているわけではないように思える。赤外線はいわゆる熱線だが、幽霊は冷たいので、要するに「影が映る」ということだ。そこだけ周囲より冷たいので、暗いシルエットが抜けるように写る。

 よって、周囲が冷たい時には、赤外線カメラでは姿を捉えられぬのではないかと思う。

 実際、夜に赤外線カメラで撮影しても写り難い。冬も同じ理屈で写り難い筈だが、周囲の熱源との落差があれば話は別だ。人体(体温)とか、暖房などの影響で温度差が生じている時には写りやすくなる。確かに冬の幽霊画像は、人間のごく近くで撮られたものが多い。

 この辺の仕組みはまだ分からないから、少しずつ確かめて行く必要がありそうだ。

 

 さて、「着物の女」に戻る。

 神殿の前に立ち、ガラスの中にこの女を発見したのだが、思わず「スゲーな。はっきり見えてら」と口にした。

 何百回もこれに類する経験を経て来たので、さほど驚かなくなっているのだが、しかし、目視ではっきり見えると、少しく感動する。

 「これは現実なんだな」

 振り返って見るが、やはり誰もいない。

 何年間も「着物の女」について記述して来たが、同じ女だと思う。令和元年の春先には頻繁に姿を見せていた。

 「首から上が無い」ことが多いから、かつての私(の一部)に関りを持つ者かもしれぬ。

 

 「問題ははっきりした証拠になるかどうかだ」

 通常撮影と併せ何枚か撮影したが、あまりはっきりしない。

 まだ暑い盛りだし、そこは十一月くらいになれば、条件が良くなると思う。

 

 イリス(女の悪縁)も出始まっていると思う。幽霊は原則、思考能力を持たぬのだが、複数が凝り固まると、「知恵が働く」ようになる。

 このため、巧妙に自身の姿を隠すようになる。

 コイツのことは、よほど経験を積まぬと、認識出来ない。

 現実にこういうヤツがいると分かるまで、何年もの時間を要した。

 

 最初は手の先が見えるだけで、これに着目すると、徐々に色んな体(の一部)が見えるようになる。

 そのうち、相手も自分が見られていることに気付く。「お前。私が見えるのか」と言わんばかりの視線を送って来るようになる。

 こちらも「ちゃんと見えているからな」というメッセージを送るわけだが、これも重要な要素だ。

 これは野球でピッチャーが時々、ランナーのことを「眼で制する」のと同じ効果を持つ。「アウトにするぞ。出るなよな」という意思を示すのは、抑止力になる。

 こういうのは、普段から練習して置かぬと、いざ自分に関わる者(お迎え)が現れた時に、それを制止できない。

 幽霊には人に対するのと同じように丁寧に接するわけだが、相手を認識したうえで、間にきちんと線を引き、「自分の領域を出るな」というメッセージを送ることが必要だ。

 

 「着物の女」は、私と経緯がある者だと思うが、敵では無いと思う。

 あるいは助けて欲しいのか。

 私は二三年前とはもはや別人だから、いっそう寄り付くようになる。

 

 ちなみに、異変を検知する時のやり方はこう。

1)光と影の関係に着目する。出来ぬ筈の影が出来たり、光の筋が入ったりする時には注意が必要だ。人の姿の有無はあまり関係がない。

 「見えぬ」ことを前提にすればよい。

 

2)理由なく景色が歪む。ガラスは光が交錯するので、よく観察する必要があるわけだが、面に歪みがあるわけではないのに、景色が歪む。

 これは概ね「何か」が通っているから。この場合の「何か」とは「霧(幽界の)」や「煙玉」、「幽霊などだ。」

 

3)「視線」に気を配る。

 これは感覚なのであやふやなものだが、常に「自分を見ている」視線があるかどうかを観察する。

 群衆の中に一人だけ自分に関心を持ち見ている者がいれば、誰とは分からぬまでもそれに気付くものだ。「視線を向ける」のは関心(または魂胆)があるということ。

 この関心の質で、対処が必要かどうかが決まる。

 殆どの場合、「通行霊」だから、連れて歩かぬようにすればそれでよし。

 

 先んじて手を打てば、どうということも無いので、何ら怖れる必要はない。

 人間に接するのと同じ振舞い方で良い。あとは対幽霊の三原則に従うこと。