日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎霊界通信 R060624 「蜘蛛の糸なのか?」

霊界通信 R060624 「蜘蛛の糸なのか?」
 家人を駅まで送った後、八幡神社までセルフチェックに行った。最近、心身共に不調で、肩が重い。

 社務所の前で自分のガラス映像を撮影すると、何故かイヤホンのコードみたいなのが映っていた。境内にイヤホンをして入ったのは、先月に一度で、「幽霊ラジオ」を持参した時だけだ。(ちなみに、コイツは何の役にも立たない「ただのラジオ」だ。)
 胸に見えるのは、外見がイヤホンコードだが、実際「持っていない」のだから、何とも説明がつかない。
 「こいつが時々、顔にかかる蜘蛛の糸なのか」と思ったりもしたが、フラッシュ撮影をすると、二重映りの二本だけでなく、木の根のようにあちこちに張っているようだ。
 やはりどうにも説明がつかない。

 昼の二時頃で太陽は頭の上にあり、私の影は地面に出るのだが、ここでは何故かいつも後ろに黒い影が出る。太陽が真上で、影は後ろ。物理の法則に従っていない。
 最近始めてみた行為が、「急にしゃがんでみる」というもので、あの世の者は頭が無いのでとっさの対応が出来ぬことを見込んだ振る舞いだ。
 ウェブ画像では判別できぬだろうが、私の頭の後ろには女がいる。この女はこれまで見たことが無く、少しく考えさせられた。アラ40くらいの女性のようだが、コイツはどこから来たのか?
 そう言えば、最近は幾度かこう祈願した。
 「誰かが分からねば、ご供養も出来ぬのだから、出て来て顔を見せろ」
 実際、煙の出る度合いは高まったように感じる。

 こういう時にはさすがにイラっとする。
 有り得ぬことが起こっており、着けてもいないイヤホンコードが映るわ、はっきりしない女の影が出るわ、何の証拠にもならぬ画像を集める羽目になった。
 ま、このところ、何ひとつ上手く行かぬので、心をマイナスに回転させるような何かの力が働いていたのかもしれん。

 あの世を解明する道程は険しく、果たして生きている間に有効な知見を得られるかどうか。こころが曇るが、こういうのも背後にいるヤツの影響だったりする。 

 

 と書いたら、不通電話が「チリン」と鳴った。(回線が繋がっていない。)

 少なくとも、左肩の後ろには新しい女がいるらしい。 

 しかし、あのイヤホンコードみたいなのは一体何なのか。何の説明もつかずイライラする。しかも何ひとつ上手く行かない。

 

追記1)最後の画像では、左手の下のお腹が消えているから、実際にそこにいた模様。
 この日の夜、眠っていると、「さよなら」「さよなら」という声がする。
 「俺がいよいよこの世とオサラバなのか」と思ったが、女の声で当方でも家人でもない。別の者の声だ。
 「慰める」と約束したから、とりあえず起きてお焼香をすることにした。

 今は午前二時。

 ちなみに、蜘蛛の糸とは、幽霊が乗って来る時の体感のことだ。

 蜘蛛の糸がかかるような感触がある。ゼロコンマ下グラムの感触だから、殆どの人が気付かぬと思う。顔の時だけそれと分かる。

追記2)イヤホンコードなら、スマホかラジオに繋がっている筈で、画像にはこれがなく首の周りだけにある。耳と耳だけにイヤホンを付ける者はいないから、やはりコードではないようだ。だが、それでは一体何?

 「蜘蛛の糸」の実体なのか?

 黒玉は「体の不調」の時にも出るから、持病の一つである筋膜種になりかかっているのかもしれん。

◎古貨幣迷宮事件簿 「通貨と絵銭の話」(続)「鋳造貨幣の出自を探る」その2

◎古貨幣迷宮事件簿 「通貨と絵銭の話」(続)「鋳造貨幣の出自を探る」その2

 まずは思い出話から。

 さて、またまた25年以上前のことになるが、ある日、NコインズOさんが私に「背千の母銭がまとまってあるが一括で買ってくれないか」と言った。

 軽く考え、「良いですよ」と答えた。頭の中では「20枚かそこらの話だろう」と思ったのだ。ところが、「ではこれです」と差し出されたのは、ブック2冊だった。

 既に収集済みの品が十五枚はあったので、正確な枚数は忘れた。何せ昔のことだ。

 持っていた品の方も一時に入手した品だ。

 O氏からブックを買った数年前のこと。仙台駅での乗り換えに時間があったので、藤崎デパートを訪れた。すると、たまたま入ったばかりのブックがあった。見せて貰うと、中身は概ね背千の母銭だった。「一枚五千円です」と言う話だったが、中に大字背千が混じっていた。じっくり見たいが、十五分くらいしか時間がない。

 仙台銭のことは殆ど知らぬが、「大字背千の母銭」なら五千円ではなかった気がする。「全部五千円ですか?」と訊ねると「そうです」との答えだったので、大字背千を含む十枚くらいを買わせて貰った。

 その後、仙台銭は殆ど見ずに、Oコインや他のコレクターに譲ったが、ボウ鋳背千らしき品は残して置いた。当時持っていた他の品は入札で買ったものが少々だ。

 普通の小字背千の母銭であれば、当時は枚単価五千円で「もはや一杯」の値で、ボウ鋳となると少し低く見られた。これは不出来でみすぼらしい品が多いためだ。

 

 さて、Oさんの件では、「いいですよ」と答えた手前、品物を引き取ることにしたが、1冊80枚×2冊だから80万円の買い物だ。あとで検めたが、中身は仙台、南部の背千母銭と銅銭(背千通用銅銭)だった。欲しいのは南部領の銭なので、後で仙台銭を十枚単位で安値で放出した。

 南部銭らしきボウ鋳背千の方は、その後二十年以上楽しませて貰った。

 「同じ銭種で、作り方が違う」という格好の資料だ。その上、後で分かったことだが、「てっきり収集家がコレクションを売りに出したもの」と思っていたのだが、実際にはOさんが二戸周辺で雑銭から出したものだったようだ。

 後にOさんは「寛永銭を二差買って、店に戻って解いて見たら、全部が背千の母銭だったから、手が震えた」と言っていた。あ、それだわ。

 「それじゃあ、それを枚単価五千円で売ったなら大儲けじゃないか」と思ったりもしたが、業者さんだから別に当たり前のことだと思いなした。客の便宜を図って利益を得るのが業者さんだ。

 ところで、二差しなら二百枚くらいだが、引き取ったのは百六十枚だった。残りの四十枚はどこに行った?

 すなわち、その分は「五千円では売れぬ品」で、要するに役の付いたものだということだ。舌千系統の品が無かったから、多分それだと思う。

 Oさんには幾度もこういう突っ込まれ方をしたが、その一方で、入手の難しい品を優先して譲って貰った。こういうのはお互い様だ。いちいち「高いの安いの」と言っていると、個別に紹介されるケースが無くなるから、入札を通じ、競って買うしかない。

  もちろんこれは「安く買える」と言う意味ではない。直接、電話で「こういう品があるのだが」と連絡が入る時には、売価は「オークション以上」だと思った方がよい。

 オークションでは大量に品が出るので、競りに「穴」が生まれ、誰も競って来ずに安く買えることがあるが、紹介の場合は、既に「お腹一杯」の値段だ。

 だが売買の煩わしさが無いことと、その銭の背景について話を聞けるという利点がある。入札やオークションでは、詳細な説明はなく「銭種」しか情報が得られ無い。

 

 さて、この背千銭は大層勉強になった。数十枚ずつを見ると、大量観察に近い検分になり、砂づくりや仕上げ工法などの違いが分かったのだ。

 もっとも多かったのが、やはり仙台銭を踏襲したもので、砂も割と良いものを使っていた。鉄銭の型と分布を照合すると、どうやらこれが葛巻銭座で作られた銭らしい。葛巻の街中や周辺で出た品(ウブ銭)には、背千写しや舌千系統のものが多いのだが、目寛見寛類はあまり混じっていない。

 鷹巣鷹ノ巣とも)銭座は、密鋳銭座と言えども、職人が一千人を優に超えていたので、「大量の鋳銭に見合う母銭を準備した」と見れば、実際の分布に合う話だ。

  なお葛巻鷹巣銭座は一か所に集中してあったわけではなく、多々良山までの一帯で移動しながら炉を築いたようだ。完成品を鷹巣(字あざ)の「山内」(地名ではなく一般名称)に持って行き、そこで取りまとめた。たたら炉は一度作ると取り壊すし、炭の調達のため、木材を大量に必要とする。そこで移動して炉を築いた。

 論より証拠、山の名前が「たたら山」になっている。

 ちなみに、今は中に入って行くのは危険だ。山道は険しいし、熊が出る。最初に分け入った時には、いきなりカモシカが目前に出て驚かされた。カモシカは古名を「青獅子」と言い、雄はライオンに似たでっかい顔をしている。

 

 さて、話を元に戻すと、ここでの本当のテーマは「四年銭小様」の鋳写し母になる。

 「葛巻」および「目寛見寛座」については、過去には銭籍が様々移動したが、戦後は「葛巻」か「八戸」とのみ書かれることが多かった。

 Oさんとの議論のテーマのひとつは、「実際にはどこでどのような鋳銭が行われたか」ということだった。とりわけ、「目寛見寛座」の鋳銭が問題になる。

 「何故に、目寛や見寛のような極端に小型の銭を作ることになったのか」

 「実際に使えたのか」等々である。

 後者については、すぐに答えが出て、貨幣には「斤量使い」の側面があり、重量を計測すれば「※文相当」と簡単に交換できる。要するに「使えた」ということだ。

 維新の前後で交換比率が銅銭1枚=鉄銭6枚だったが、数年後には密鋳鉄銭であれば十数枚までレートが下がった。これは密鋳鉄銭の製造が明治三四年まで行われ、生産過剰になったことによる。当時の括りを見ると、一括りが十枚だったり、十ニ枚だったりしているので、概ね括りごとの「重さが基準であり、枚数ではなかった」という意味だろう。

 (話題がそれるので元に戻す。)

1)目寛見寛座 明和四年銭鋳写し母の発見 

 さて、「葛巻銭」と「目寛・見寛類」には似ているところと似ていないところがある。前者はオーソドックスな背千の作成を目指しているのに、後者は目寛・見寛を始め複数の一般通用銭に端を発した銭種がある。製造工程もかなり違い、砂目や輪側の仕上げ方も著しい相違がある。

 ま、最初に見るのは輪側だ。これが直角に立っており、包丁を研ぐ時の肌理の細やかな砥石で研いでいれば、目寛見寛座のものだと見て良い。

 ここからが、漸く本題だ。

 私が引き取ったブックの背千銭や無背銭を見ていると、ひとつ腑に落ちぬ品があった。触り慣れた「小字背千」とどこか違う。書体は小字背千無背のようだが、どうにも違和感がある。

 O氏にも見て貰い、「これは普通の小字千無背ではないですね」と言うと、O氏も首を捻っている。

 

2)「これは小字千無背ではない」

 書体が殆ど同じなのに、微妙に違う箇所がある。近似した書体を探してゆくと、「明和四年銭小様」に行き当たった。

 だが、この銭は「仙台(石巻)小字背千」にもそっくりだ。

 ここで、当四削頭千無背のことを思い出した。仙台では江戸の銭を「範として」母型を作り始めている。それなら、小字背千の出自が四年銭だということもあるのではないだろうか。

 ここからが紆余曲折したので、上手く説明可能な言い方を見付けたのは、割と最近だ。

 結論を先に書くと、次の通り。

 「明和期小字背千・無背が範としたのは、明和四年銭小様降通である」

 「この品(鋳写し母)の基になったのは、明和四年銭小様である」

 要するに「この品は、明和期小字千無背の写しではない」と言うことが出来る。そもそも起源が違う。「似ている」のは近縁種を素材に取ったからということ。

  <要約>

   「明和四年銭降通」 → 「明和小字背千」となり(A)、

   「明和四年銭」   → 「掲示の品(四年銭鋳写し母)」であるなら(B)、

   「A → B」は成り立たない。

  この検証プロセスは前回とほぼ同じで、既に報告済みなので省略する。

3)見寛はどこから?

 目寛見寛座については、小笠原白雲居「南部鋳銭考」によれば、「元は葛巻で鋳銭に従事していた藤八(または藤七とも)が二戸地方に行き独自に座を開いた」と記している。別称を「藤の実」と言うが、藤の花のように小さくツブツブであることと、暗に「藤七(八)」の名を示した呼び方だったようだ。

 葛巻との主な相違は銭種の構成で、元が葛巻銭座の職人であるから、葛巻背千を持っていたが、枚数が少なかった。このため、一般通用銭を鋳写して、これを母銭に加工して鋳銭に充てた。

 このような銭種としては、前述の「目寛」「見寛」「背元」「背元様(水永)」「縮字」他である。母銭を彫母などから作ることはせず、専ら「写す」ことで入手することになった。(なお地元での呼び方は「目寛(めかん)」「見寛(けんかん)」である。これは「めかん」「みかん」では紛らわしいことによる。)

 この場合、座銭の書体には近似した一般通用銭がある。

 ◆<一般銭>から<目寛見寛座鋳銭>の対応関係 (事例)

 「小子背千・千無背」→「小子背千・千無背」

 「背元」→「背元」「背元様(水永)」

 「座寛」→「目寛」 

 「縮字」→「縮字」

 さて、この座の代表的な銭種のひとつである「見寛」の出自はなんだろうか。

 O氏との議論の中心は、まさにこの点だった。

 小字背千の系統の品であれば、一定の枚数があり、それを基にした母銭が存在している(目寛手背千)。

 見寛は明らかに出自を違えるが、これはどこから来たのか。

 

4)原因は鋳型によるものか   

 「目寛」という銭種は、書体の上で全体は「座寛」に近似しているが、部分的に変化の著しい箇所がある。また銭径が縮小し、内部が詰まっている。

 形態としては、他領に類例のない「突飛な」ものとなっている。

 これを説明するための私の説は、「私鋳であり、良質の砂を持たなかったので、肌の滑らかな母銭を作る段階では、粘土型を使った」というものだ。

 通用銭は鉄銭で、鉄銭はそもそも仕上げをしないし、銭のかたちをした鉄であれば、換金が可能になる。目寛見寛座は専用の鋳砂をもたなかったので、通用銭に関しては山砂(珪砂を含んだ土)を使ったが、それでは砂目が粗く良質な母銭が作れない。このため、粘土で型を取り、これを乾燥して母型にした。粘土型は肌がきれいな製品が出来るが、1回から数回で割れてしまうことがある。大量の鋳銭には向かず、母銭御身の対応になる。

 これを実証に近付けるために、実際に作ったのが参考図の永楽銭である。

 この小型の方は、粘土で型を採り、これを乾燥した上で、電機炉で溶かした銀を流し込んで作ったものだ。素材を銀にしたのは、粘土型に関する課題の他に、永楽銀銭に関する疑問があったからで、要は当時市場に出ていた銀銭(特に天正)が後出来だろうと見込んで検証を試みた。ちなみに、天正は四枚くらいをサンプルとして入手したが、最終的に私なりの見解が確定する前に半値で売り払った。(となると、その見解の内容は想像出来る筈だ。こちらのヒントは地金の配合。もちろん、少数サンプルの話なので公に口にしたことはない。)

 

 さて、この作業で分かったのは、粘土型は乾燥させる途中で、型自体が著しく縮小してしまうことだった。砂型であれば、型自体の縮小は少なく、金属の湯縮だけを想定すればよいが、粘土型の場合は、型が著しく縮小するために、意匠に不規則な変化が生じる。

 ま、実験の時には、工作用粘土を使ったが、素材が固くあまり良い型にならぬので加水して粘土を柔らかくしたという経緯がある。水分を加えたことで、これが乾燥するに伴って縮小する度合いが大きくなったようだ。

 

 傍証の積み重ねになったが、掲示の品は「目寛見寛座」「明和四年銭の鋳写し母」であり、さらに「見寛の初期形態(原母群)のひとつ」であると思う。最後の部分を確認するには、類例が幾つか必要だが、これまでこれを持つ人に会ったことが無い。

 そもそも寛永銭譜では、仙台以外の密鋳背千は「ボウ鋳背千」とのみ記されて、拓本が一枚載せられるだけだ。これはこれまで誰も興味を持って来なかったということだ。

 もし古銭収集家の性癖である「型分類」で眺めようとすると、八戸銭は何百種類にも分けられると思う。これは、銭の密鋳を大掛かりに行ったケースは僅かで、多くは小規模のたたら炉で行われたことの帰結的影響になる。工程が人によって、また炉によって異なるわけだから当たり前ではある。

 八戸方面の密鋳銭を理解するには、鋳銭工程で整理してゆく他に道はないと思う。

 「八戸背千銭」として、五百種八百種の分類を行ったところで、殆ど自己満足で、誰一人理解出来ぬし、そもそも興味も示さないということだ。

 この四年銭写しも、ただ「千無背の写しだろう」と眺めていた人が殆どだった筈だ。

 それ以前に「関心を持って見たことが無い」わけだが、これは批判的な意味で言っているわけではない。収集や研究は自身の興味のある対象に絞った方が深く掘り下げられるし、負担が軽くなる。だが、その見識を他のものに当て嵌めようとすると、大体は判断を誤る。

 何せ古泉家は古銭書しか読まぬし、古銭収集家としか付き合わない。

 これが集まりにも出ず、ネットや古銭書にのみを頼っていると、もっと悲惨だ。

 こと南部銭については、大正以降に文字に落とされたものはほとんどデタラメに近い。『岩手に於ける鋳銭』を原典に近い状態で精読した者はいないし、勧業場について調べた者もいない。ただ手の上の銭を見て印象や憶測を記しただけだ。それをテキストにしたら、まともな知識が得られるわけがない。

 収集の先輩たちが「まずは会(集まり)に入り交流を持て」と言って来たのは、そういう意味だ。少なくとも体験交換の契機にはなる。もちろん、収集家以外の交流もより一層重要だ。

 

 さて、私やO氏は、ひと目で「これは小字背千の系統ではない」(正確には「背千本来のものとは違う」だった)と見て取ったが、それも百枚単位で手で触ってみた経験によると思う。 とりわけ、当時は目の前にブック2冊160枚とバラ銭20枚弱が見えていた。

 今のところ、四年銭鋳写し母の現存(確認数)はこの一枚のみだが、検証すればあと何枚かは出て来るように感じる。

 「目寛見寛座」の「四年銭小様・鋳写し母」であるだけで、位付1の珍品だ(w)。

 蔵中を探してみる価値はある。と最後は古銭家の関心に沿って書いて置く。           (この項終わり)

 

注記)いつも通り、記憶を頼りに一発撲り書きで記している。推敲も校正もしないので不首尾はあると思う。あくまでエッセイの範囲と理解されたい。

 

追記1) 「四年銭写し」は背郭の上のスペースが狭く、「千」字の入る余地がない。

 鋳写しを重ねた結果、内輪と内郭の間だが詰まるケースがあるわけだが、この品の銭径は大きく、鋳写しにより縮小したわけではない。

追記2)図10は、便宜的に拓本と画像というソースの異なる素材を重ねたので、目視確認が難しくなっている。私自身はA4大に拡大して見ている。画像の場合、谷までの傾斜が視野に入るので、拓すなわち同一平面上の情報に縮約した情報で比較する方がやりやすいと思う。

◎古貨幣迷宮事件簿 「通貨と絵銭の話」(続)「鋳造貨幣の出自を探る」その1

◎古貨幣迷宮事件簿 「通貨と絵銭の話」(続)「鋳造貨幣の出自を探る」その1

 以下の議論は既に25年は前に済んだ話だ。

 古銭会では一部にのみ触れたことがあるが、議論の中心は、花巻NコインズOさんとの間で行われた。花巻の例会があった時に、二次会が喫茶店などで行われたが、さらにその後で、Oさんと二人で店内か食堂に行き、そこでこれを話した。

 古銭会で取り扱わなかったのは、鋳銭の工程すなわち「どうやって貨幣を作ったか」について関心を持つ人が皆無だったことによる。収集家の90%以上が興味を持つのは分類で、誰がどういう手法で作ったかについては無関心だ。

 

1)仙台削頭千のつくり方

 鋳造地、鋳銭主体が違うのに、銭容がやたら似ている銭種がある。

 ま、銭譜を見ると「※※銭を範として作った」などと書いてある。

 では、その「範として作った」というのはどういう意味なのか。「写して作った」のか「真似して作った」のか?

 最初の素朴な疑問は「原母はどこから持って来たのか?」ということだろう。

 ひとつ目は「自分で作る」で、通貨であれば、書家に文面を書いて貰い、それを金属板に貼り付けて、彫金師が彫る。当然片面ずつで、それを合わせて一枚の彫母を作り上げる。二つ目は「最初の母型(彫母や原母)を調達し、それを基に銅原母を増やす」。

 銭文が酷似しているのであれば、二番目が想定されるところだが、しかし、その場合は鋳写しが基本となり、途中で加刀修正などが入らねば、縮小率に差は出こそすれ、配置は変わらぬ筈である。

 それなら、配置を重ねて、一致点や不一致点を確認すれば、「どうやって作ったか」が推定出来そうだ。

 そこで、文面の非常によく似ている江戸深川俯永と仙台削頭千との合わせを行った。

 

 手法については図1から4の通りで、内郭のサイズを基準に、拓影を合わせてみた。

 これによると、配置が90%程度の水準で一致しており、「文面を記してー」を棄却することが出来る。書家が手で書くと、必ずその人なりの癖が現れるので、配置が崩れる。

  要は「出発点が深川俯永だった」ということだ。これが「範として」の言葉の裏付けになるわけだが、しかし、数㌫の範囲で明確な相違点が生じている。

 その中には「加刀修正による変化」とは考えにくい相違があるわけだが、これはどういうことなのか。

 このことの理屈は容易に想像がつく。

 仙台削頭千は大型の鉄銭であり、「銭の規格を大きくする」ことが念頭にあった。

 鋳写し手法では、銭型が縮小してしまうので、原母を大きく作る必要がある。

 これを補うのは、「深川俯永の拓本を採り、これを金属板に貼り付けた上で、彫金師が少し大きめに彫った」ということだ。

 この「彫り直す」途中の工程で、文字や波などの「鋳写しでは生じにくい変化」が生まれた。

 

2)小字背千のつくり方

 初発段階で、まったくのゼロから始めるよりも、手本をなぞる方が作業が容易に進む。同じ銭座であれば、削頭千と同じ手法で作られた銭種があるのではないか。

 同じくよく似た銭種として上げられるのが、明和期小字背千と明和四年銭である。

 この銭種の文面は非常によく似ている印象である。

 そこで、1)と同じ手法で、銭影を重ね合わせてみることにした。

 

 この場合、標準銭径が小字背千の方が大きいので、これを台にして、銭影を重ねてみた。郭を基準にサイズを調整すると、文字の配置、背面の輪・郭の配分比について、かなりの確率で「四年銭小様降通」に合致することが分かった。

 もっとも大きい相違は「背の内輪の幅」で、四年銭小様はとりわけ郭上が狭くなっている。

 おそらく削頭千と同じ手法で、拓→金属板への彫金で仕立てたと思われるが、「千」字を入れる都合上、背郭上のスペースが空いている方が都合が良かったのだろう。

 もちろん、「総てがこれによる」と言うわけではないので念の為。

 

 ここまでは、あくまで準備段階の話だ。

 恐縮だが、私は仙台銭に興味を持ったことが無いので、この先は地元の人の考えることになる。

 なぜ仙台の技法に着目したか、その理由は、石巻銭座に多くの南部職人が出稼ぎに出て、この職人が帰村して、「八戸領内で鋳銭を行った」ことによる。

 八戸の鋳銭事情を知るには、まず仙台領のコンセプトを押さえて置く必要があるわけだ。この場合、仙台での厳密な方法や、個々の仙台銭については不要で、基本的な工程の流れが分かればよい。                 (次回に続く)

 

注)記憶のみを頼りに記すもので、一発殴り書きである。推敲も校正もしないので不首尾はあると思う。エッセイの範囲というように理解されたい。

 

追記1)O氏との話題の焦点は「目寛見寛座の鋳銭方法」だった。

 背千の鋳写しの系統と、一般通用銭に範をとったと思しき系統が存在しており、これらは、企画の段階からまるで違う。

 銭譜を見ると、「背千写し(正様)」も「目寛見寛類」も、一様に「葛巻銭」と書いてあるが、ウマシカ丸出しだと思う。

 母銭の製造工程からしてまるで違うものが、同じ銭座の産物だと。

 もしそうなら、工房が幾つもあり、てんでばらばらな鋳銭を行っていたことになる。

 通用銭を作る時には、母銭の揃えは終わっている。母銭と通用銭を並行して作ることはない。職人に払える賃金を抑えるには、効率よく作業を進める必要がある。

 彼らは「美麗な古銭」を作ったのではなく、「貨幣を作り」「利益を上げる」ことを考えた。「きれいのきたないの」「良いの悪いの」は、道楽者のざれごとだ。

 そんなのは結果のひとつで、それを解きほぐすのは「どうやって作ったか」を知る以外にない。

◎病棟日誌 R060624 「この心地よさはどこから」

病棟日誌 R060624 「この心地よさはどこから」

 画像はこの日の病院めしの「ソースかつ丼」。

 他の病院では、とんかつが出ることはあってもソースかつ丼は出さぬと思う。

 ソースかつ丼は、主に関東西部から北陸までの郷土料理で、東限がこの街だ。街の飯屋でソースかつ丼を置いているのは1軒くらいしかない(調べた)。

 当方は研究や仕事で秩父に長らく関わって来たこともあり、長らく「わらじかつ丼」を見ていたが、二十年くらいは食べなかった。

 主に外見が原因で、ご飯にかつが乗っただけのシンプルな印象だし、とんかつソースやウスターソースがかかっているだけかと思っていたからだ。

 だが、全然違う。「ソース」と銘打っているが、和風出汁で醤油の下味が付いている。ザラメ糖で甘味を付け、ソースは香りだけ。シンプルな味付けにより、豚肉本来の風味が感じられる。

 下に湯通しキャベツを敷くことで、脂がご飯に染みることもなくサッパリしている。

 食わず嫌いが長かったが、最初のきっかけは、やはり「ご馳走になった」ことだった。この場合は選択肢は相手のお任せだ。

 実際に食べてみると、事前の印象よりだいぶ違う。

 それからウン十年が経ち、今やソースかつ丼は、ソウルフードのひとつになった。

 群馬山梨や長野、新潟辺りまでの範囲で、よく知らん地元の人に会ったら、まずはこの話から入れば大体は接点が出来る。

 

 郷里(岩手)に、寂れたとんかつ屋があり、店主は意欲・気力を失ったジーサンだった。店も昭和三十年台の雰囲気を残す古びた構えで、殆ど客は来ない。だが、かつ自体は年季が入っており美味かった。面倒になったのか、付け合わせの総菜が不味くそのせいで客が来ない。

 それを見て、「ここはたぶん、ソースかつ丼を教えれば起爆剤になる」と思った。ソースかつ丼は、単品でポロンと出て、おしんこや、味噌汁が付かぬことが多い。これが必要ないなら、かつだけで勝負出来る。

 そこでレシピを整理してファイルにまとめ、数度店に行った。 

 だが、その時に限って店が閉まっている。やはり店主の年齢がネックで、時々、病院に通うわけだ。

 最近は東北地方でも、チラホラと「ソースかつ丼」を扱う店が出て来たが、「そりゃモノが全然違う」と言っとく。東京の焼き肉屋で「盛岡冷麺」を頼んだ時と同じことが起きる。

 ま、その地に行かねば食べられぬ味だからこそ良いところもあるわけで。

 

 この日の穿刺担当は、新潟出身のエリカちゃんだった。

 「俺は花火大会を見に行って、そのまま天に上って行きたいわ」

 愚痴兼ブラックジョークなのだが、エリカちゃんは「花火大会」でスイッチが入り、長岡に始まって、「どこぞの花火にはこんな特徴があって」と延々と詳述してくれた。

 「特に良いのは※※町ので」(名前は忘れた)

 新潟の花火は、一発一発を個人が発注して上げて貰うそうだ。

 「打ち上げ花火は一発何十万かかったりするけど?」

 元は、その年に亡くなった親族を悼み、その故人のために上げて貰ったそうだが、今は記念日の祝いでも花火を上げる。なるほど、ご供養ならそれくらいはやる。

 花火が上がる度に、誰のどういう目的のかを紹介するアナウンスが入るらしい。

 「なるほど。それじゃあ、俺の田舎の舟っこ流しと同じだわ」

 小舟に行燈を載せ、故人の名を書いて、川に流す。今は人が減って郷里ではやらなくなったが、盛岡の街中ではまだやっているかもしれん。

 

 「※※町の花火の時には、この位置から見るといいいです」。あれやこれや。

 細に入った説明なので、覚えきれねーぞ。

 だが、心地が良い。

 たぶん、この子は酒を飲んで酔っ払えば「長々、ごんぼを掘るだろう」と思った。

 田舎の人だ。そこが最大の長所だわ。

 

 この日の終わりはユキコさん担当だった。

 ユキコさんは、飯能の奥に住んでいるが、当方も飯能には諸事情で通っているから、地域事情は分かる。

 ユキコさんは飯能の市街地にある和食屋さんについて、情報を提供してくれた。

 それも細に入り、「駐車場への車の入れ方」や「食べるべきメニュウ」までの話だ。

 土地勘はあるから、すぐに伝わったが、やたら細かい話だった。

 これがすごく心地よい。

 ユキコさんも福島の山奥で育った。

 

 後で「エリカちゃんにせよユキコさんにせよ、あの心地よさはどこから来るのか」と考えたが、共通点は「山の子」だったということだ。

 当方も山奥で育ったから、「空気感」が似ている。

 ユキコさんが、「米蔵の前で木材の上に座り、田圃の上を飛ぶ赤とんぼを見ていた」景色などは、手に取るように分かる。

 「何歳の時に、ここでこういうことをやり、これを見たでしょ」と確かめると、大体当たっている。

 

 いつも思うが、同級生同士で結婚し、かつ同じような生活体験を経験していれば、相手のことが「ツーカーで分かる」と思う。

 ああ、そういう相手と結婚せずに良かった。

 こっちのことが「全部まるっとバレてしまう」から、当方の場合、まずは数年で離婚だわ(w)。不始末が多いが、自分では止められない。すぐに「新しい事業」を思い付いて始めてしまう。

 

 ところで、今では「心地よい」とは思っても、「萌えええ」と言う感覚はない。大人になったのか、あるいはトシを取ったのか。

 死ぬまで現役でいるべきだと思うので、少し物足りない。

◎古貨幣迷宮事件簿 「通貨・絵銭の話」(続) ◆天保通寶 盛岡(南部)小字の黒色の母銭

盛岡銅山銭、天保盛岡小字に打たれた六出星の大極印

◎古貨幣迷宮事件簿 「通貨・絵銭の話」(続)

天保通寶 盛岡(南部)小字の黒色の母銭

 勧業場製の記述をしていて「小字母銭」について思い出した。

 あれはもう25年以上前のことになる。

 岩手の収集家某氏より連絡があった。

 「私はもう齢なので収集品を売却したい」

 「大量にある」とのこと。

 ひとまず自宅を訪問すると、コレクションは見事なもので、盛岡銅山銭を始めに希少品がぞろっと並んでいた。

 「まずは雑銭から始め、総て売ります」

 最初は木箱に十箱くらいの雑銭で、「収集家の見た後の品」でちょっと退いたが、後々、希少品も出て来るということで、通常の枚単価で引き取った。(ここはネット売価程度でも良い。)

 売り方としては非常に上手で、コレクターにせよ業者にせよ欲しいのは希少品。先に希少品を出せば後は二束三文だ。とりわけ、収集家の持っていた雑銭なら「見たカス」になり、買い手はなくなる。

 これで延々と付き合うことになったが、雑銭の処理が終わり、ようやく役付きに入いったところで、蔵主が「結構売れたから、とりあえずこれくらいでいいかな」と言う。

 「オイオイ。話が違う」と思ったが、ゴタゴタするのも見苦しいし、自分から「譲ってください」と言うのはやめようと思っていたので、そのまま引き下がった。もちろん、この時点では怒り心頭だ。既に百万単位で遣っている。

 それから、しばらくして、「母銭を一枚売りたい」という連絡があり、再び訪問すると、当百銭の盛岡小字の母銭だった。

  だが、どうにも表面色が黒い。要は白銅質だったということだが配合が藩政期のものではない気がする。小字の母銭であれば、その当時でも「下値は百万から」の品だが、希望価は四十万だという。明らかに安い。

 さすがに躊躇したが、「買い手を探して欲しい」という依頼だったので、鑑定の出来そうな収集家を紹介した。

 後日、その収集家と一緒に再訪問し、見て貰ったのが、その人は引き取りますと言って買っていった。仲介はしたが、もちろん、手数料などは双方とも貰っていない。私は品物について何も保証できぬので当たり前だ。

 立場的に業者ではないからだが、交通費などは持ち出し。だが、こちらは盛岡銅山銭が欲しいので、それまでは付き合う。

 

 この黒い色の小字母銭について後に調べたが、NコインズOさんに聞くと概略が分かった。元の持ち主はK村さんで、K村さんがこの最初の収集家に売り渡した品だとの由だった。K村さんが売り渡したのも「推定相場の半値」で、要は疑問のある品だったということになる。

 ただ、輪側に極印があったが、母銭の仕様であることが明らかだった。

  いかんせん、地金色が黒い。

 この点は一年後に氷解した。

 盛岡銅山銭の二期銭を相次いで入手したが、これと地金がほぼ同じだったのだ。

 母銭なので当たり前だが、焼き型を使用しており、極印も打っている。二期陶笵銭も同じだ。二期陶笵銭には、初期には砂が若干粗い、「いい感じ」のタイプがあるのだが、地金だけはほぼ同じ。

 こういう品を未経験者が短期間で作ることなど到底無理な話で、これで「勧業場では銭座で鋳銭を経験した者が指導した」ことが明らかになった。

 まず銭座職人が鋳銭工程を口述し、それを新渡戸仙岳が書き取りつつ、職人が工程を再現して見せた。記述内容は細に入り詳述された部分があり、これは目の前で見ていなければ書けない水準だった。ただ、新渡戸なりの解釈が入った箇所があり、それが「陶笵」などの少し異質な表現になったのだろう。

 母銭の場合、通用銭と違い、長く砂笵を焼き固めるが、これは通常技法であり、取り立てて特記するほどのものではない。「母銭を作った」で済む。

 藩政期の天保銭にも地金の白い品は存在するが、配合の基本が異なるので、勧業場の二期銭などとは色合いがまったく異なる。

 

 極印についての記憶が薄れたが、確か片方が六出星の小型で、もう片方が崩れており、判別できぬかたちをしていたと思う。

 前回の仰寶小極印銭には、1個だけ「六出星の小」極印があるのだが、これを見て幾らか記憶が蘇った。

 

 勧業場製の貨幣鋳造は、専ら鋳造技術の研究が目的だったわけだが、技術を洗練させるために、「美麗な製品を生産する」ことに注力されていた。

 錫は幕末には高価な材料だったが、明治期には割と安価に手に入るようになっていたから、錫の配分量が増え、地金が白くなったのだろう。

 

 以上のことには推論を含むが、次の事実で概ね推定が可能になる。

 勧業場では、正規の母銭(または錫母銭)を基に鋳銭を行っているが、では、それを持っていたのは一体誰だったのか?

 明らかに銭座に深く関わった「当事者しか調達出来ないもの」だということだ。これが宙から湧いて出ることはない。 

 

 収集家は分類するところまでにしか興味を持たず、藩政期とは「別の品」だと思った時点で追及を止めてしまう。「勧業場製では」と見なしたところで、評価を下げ、その勧業場で何が行われていたかを調べない。

 先輩諸兄は「藩政期の品ではないが、極めてよく出来ている品」ということで、半値にしたのだろうが、まったくの参考銭でもないので的外れでもない評価だと言える。

 もちろん、それは「たまたま」であって、確たる根拠など無かった。

  明治後半の検討内容を見ると、こと南部銭については、今の方がはるかに後れを取っている。これはひとえに「分類(だけ)嗜好」と「珍銭探査」に終始する収集家の性癖による。

 

注記)エッセイであり一発書き。推敲も校正もしないのでもちろん不首尾はある。気に入らぬ筈なので、読まぬことをお勧めする。こちらは既に古泉収集界に興味を持っていない。ま、問われれば、証拠を上げて「これは参考品」と言う。よって問わぬのが無難だと思う。

 

追記1)岩手の収取家から「見たカス」を何万枚と引き取ったことを記したが、そのカス銭からは南部領ではない他領の通用銭や母銭がぽろぽろと出た。そのまま会内に安価で分譲したので、その事実を知り、後で頭を抱えた(「軽く目を通して置けばよかった」ということ)。

 地方の収集家はとかく「自身の郷土貨幣」に興味を持つものだが、時々、「郷土の貨幣のみ」に興味を持つ人がいる。

 様々に勉強になる点があったので、今では先輩諸兄に不平や不満はない。

◎科学が「ただの信仰」で、かつ「迷信」に過ぎないことを示すもの

◎科学が「ただの信仰」で、かつ「迷信」に過ぎないことを示すもの

 これが「偶然の産物だ」と思えるなら、幸せに生きられる。とりあえず死ぬまでの間は、だが。

 今気づいたが、女の憑依霊の後ろにも眼が開いている。

 やはり、私の背後でよく起きるように、後ろに亡者のムカデ行列が続いているものとみられる。

 ただ、直接的に「災いをもたらす」というより、「心に働きかける」という要素のほうが大きい。幽霊が寄り憑いたからと言って、それが直ちに凶事に結び付くわけではない。当人が心を強くし、寄り憑いた者の囁き(誘惑や勧誘)に負けなければ、悪影響は少ない。

 死ぬと「自我だけの存在」、言い換えれば「こころ(感情)だけの存在」になる。これから逃れるには、自我を解体し、総ての執着を捨て去るしかない。それが解脱だ。

 

 こういう事例は数限りなくなくある。それをどう説明するのか。

 ま、「科学的でない」みたいなことを口にする者で「科学論」を学んだものは少ない。あの世に関する合理的および科学的な見解は「現状ではよく分からない」だ。

 

 ちなみに、目視するかしないかは、専ら「可視域」と「光学的な条件」の関係性による。条件を整えば、姿を捕捉しやすくなるが、あの世の者は基本的に、煙のような光のような状態でいることが殆どだ。

 見慣れると、その煙の様子で、それが男なのか女なのかを推測出来るようになる。

 

追記1)その他の状況はこんな感じ。

 隣の女性には悪意が向けられているが、これは「頭に煙玉が出ており、その内部に悪心を持つ眼」があることでそう判断出来る。この後四年が経つが、女性は無事だろうか。

◎病棟日誌 R060620 「鶏のソテー(味噌ダレ)」

病棟日誌 R060620 「鶏のソテー(味噌ダレ)」
 この日の病院めしは、鶏のソテー。肉の量をひと口半に留めるためか、病院めしにしては濃い味付けになっている。このため、ご飯(普通の茶碗1.2杯分)が食べられる。あとは揚げ出し豆腐と玉ネギのお浸し。すっかり慣れたので、これで十分だ。今は家で食べる量もこれくらいになった。たんぱく質をご飯で摂るので、ご飯の量がおかずに比して多い。肉類の摂取量が少ないので、ご飯や食油を多めに摂るが、持病のない人の健康食とは真逆になる。玄米にすればもっと良くなると思うが、やはり美味しくはないし、おかずに合わない。

 数日前に、家人が娘のことをささいなことで悪く行ったので、即座にキレて「いい加減にしろ」と怒鳴った。
 いつも優しいダンナ(ホントか)が、文字通り烈火のごとく怒ったので、家人は少なからず驚いた模様。
 「おめーが女房だから怒鳴られるくらいで済んでいるが、これが他人なら殴りつけるだけでは済まない。命にかかわるぞ」
 当人だけではなくそいつの家族や、それこそ「隣の家の猫」まで累が及ぶ。だから相手が大切にしているものをうかつに悪しざまに言うな。
 否定して良いのは、飯の美味い不味いだけ。こいつは嗜好や生活習慣だから仕方がない。

 たまたま娘の給与明細を見たが、転職して所得が半減していた。しかも、派遣の扱いだからボーナスもない。その割には社会保険料など控除分が多く、手取りが少ない。
 こういうのも、リーマンショックの影響だ。あれで肝を冷やした企業が、収益を資産に回すようになり、本来、社員の給料や福利厚生に回る筈の金が、主に海外投資に向けられている。海外のは見え難いから、内部にいても金の動きがよく分からない。
 居間や日本の海外資産は世界一だ。これで良い思いをしているのは資本家の一部で、給料で暮らす一般の国民とは格差が開いている。「失われた30年」が聞いてあきれる。人件費も、派遣を多用することで抑えられるし、いざとなったら簡単に契約解除出来る。いつまでも給料が上がらぬことには理由があるが、それは経営陣のせい。

 そろそろ「焼き討ち」「一揆」をやらなきゃ態度が改まらない。

 娘には「転職して、正規雇用で働け」とメールを打った。
 娘は朝の六時に家を出て、帰宅は午後九時。これで給料がパート並みだ。「一部資本家」については、かならずバチを当ててやろうと思う。
 このために祈祷を学んでいるが、要は呪詛ってことだ。
 社会改革など考える気は毛頭なく、ただ一人の「コイツ」を滅ぼす。もちろん、親や子だけでなく隣りの家の猫まで含む。
 なんてことを考えるから、死後はたぶん悪霊になると思う。

 ベッドで寝ていたら、オヤジ看護師(40台)がやって来て、「お話したいことがあります」と言う。
 用件は「退職し、別の病院い行くことになりました」とのこと。
 自宅から20分で行ける病院に移るらしい。
 いつも馬券の話で盛り上がっていたので、話し相手がいなくなり当人も寂しいらしい。
 「これ電話番号です。そのうち競馬場に行きましょう」とメモを渡して来た。
 「院内で個人情報をやり取りするのはアレなんですけどね」
 「俺は女子じゃないから平気でしょ。オヤジのケツにも興味はないし」w
 だが、当方はラインをやらぬので、馬券話はメールかSNSに頼らざるを得ない。ラインは仕組みを見たら、個人情報が抜きたい放題のシステムだから、これまで使おうと思ったことはない。
 そのそも韓国人の作ったものだし、「盗み」が前提だろ。
 実際に、ラインではこれまで二度も個人情報が抜かれている。当方的にはコイツを使う奴の気が知れないと思う。日本人は性善説で、安全なのが当たり前だと思っている。だから、中韓にもクルド人にもやられたい放題だ。だが、人類の九割は悪人だわ。
 ってことで、別途、これ専用にインスタか何かを開くことにした。

 「腹が立つ」のは生きている証拠で、少しく「死」が遠ざかっていることを意味する。実際、昨年、一昨年とはだいぶ違う。
 近年は毎年何かの障りに苦しんでいたし、目前に棺桶が見えた。
 ま、七年前の同期入棟は今や三人だけになったことだし、先はそんなに長くない。少しガス抜きをして、誰かを呪い殺したい気分を解消させる必要がありそうだ。少し勉強すれば呪詛は出来そうだから困ったもんだ。

 たぶん、夜中に樹に釘を打たなくとも、簡単に出来る。苛めに悩む青少年に教えてやれば、目前の苦痛からは解消される。だが、呪詛に掛かるのは、対象一人ではなく、親や子、友人知人や隣の家の住人、その家の猫みたいなものまで災いが及ぶ。もちろん、呪った方にも報いが来て、死後に果てしなく苦しむ。

 なるべく止めといたほうが無難だ。

 

追記)怒りを表に出し、呪詛に触れたので、早速、報いが来た。

 睡眠中に「ピンポーン」という玄関のチャイムが鳴ったので、窓を見るともう明るい。「寝過ごして八時ごろになったのか」「娘はどうやって駅に行った。歩いたか」などと考え、居間を出て廊下に行くと、まだ暗い。

 洗面所で時計を見ると、まだ二時だった。来客があるわけがない。

 また居間に戻り、寝ようとすると、窓は暗かった。さっきは明るかったがまやかしだった。

 再び寝ていると、また「ピンポーン」。

 今度はすぐにスマホを見たが、午前三時過ぎ。窓を見ると明るいのだが、この季節は三時過ぎにはもう明るくなる。

 よく考えると、「ピンポーン」は脳内音だった。

 十五年以上、深夜に響く玄関のノック音を聞かされたが、最初は脳内音で、後半は実際の音になった。

 それなら、まだ初期的な「誘い」のうちで、扉を開けなければ入ってはあ来られぬと思う。前回のは家の中に入り、幾度も人影を見た。女で着物を着ているところまで分かった。今はいなくなったが、別のヤツが隣に立つ。

 おそらく呪詛に言及したのが原因だと思う。呪詛を使えば、死後は亡者の群れの中に組み込まれ、当てもなく彷徨う。

 一番簡単な呪詛のやり方は、相手の体に直接触れ「アモンさまアモンさま。※※※※」と念じるやり方だ。体に触れられぬ場合は、持ち物とか写真でも出来るが、こっちは手が込んでいる。

 いずれにせよ、その後には両方ともあの世で苦しむのだから、良いことは起きない。

もう棺桶に半ばは入っているのだから、悪縁を呼ぶような振る舞いは避けるべきだと思った。

 お寺でも行き、ゆっくりお焼香をして、あれこれの怒りを静めようと思う。

 ちなみに、「ピンポーン」は夢や妄想の範囲とはとても思えぬような大きな音だ。驚いて飛び起きるほどの大きさになっている。