日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎霊界通信 「さよならプーチン」


霊界通信 「さよならプーチン
 小鹿野の女の子に会いたくなり、フラフラと神社に参拝した。
 出てくれるなら心強いが、「良き幽霊」は姿を見せぬのが普通だ。ま、繰り返し呼び掛けているうちに、いずれ現れてくれると思う。
 名前が分かれば、呼び掛けやすいが、生憎、言葉を明瞭に発してはくれない。
 「二文字の名前」だということだけは何となく感じるが、まだそれだけ。
 次女や父、祖母(父の母)に似ているので、とりあえず「ハルちゃん」と呼ばせて貰おうか。
 ハルは二十台で亡くなった祖母の名で、私の会社の名でもあった。
 会社を作る時に社名を考えたが、「今後はITが活発になるだろう」と考え、映画の 『2001年宇宙の旅』に出て来る、「狂ったAI」の名「HAL」から和名の「ハル」にした。
 お盆で墓参りをした時に、先祖代々の墓標の横を見たら、祖母の名が「ハル」だった。父が五歳の時に亡くなっているので、祖母の名には馴染みがなく、忘れていた。社名が同じになったのは偶然だった。
 家人と結婚し、一緒に住んでいたコーポの隣の部屋には、アイルランド家族が暮らしていたのだが、二人の娘のうち、年下の女児の名が「ハル」だった。日本に留学に来て、そこで生まれたので、和名の「春」にしたそうだ。
 人生のところどころで「ハル」さんに出会う。
 その祖母に面影が似ているから、「ハル」と呼ばせて貰おうか。「まや」と言う感じもあるので、当面は保留にしとく。

 画像の方は、いつもの「でっかい女」が左後ろにいる感じがあるが、あまり鮮明ではない。今日は肘に手を掛けていたが、これは体感で分かった。文字通り「1グラムの触感」なのだが、二年前に「蜘蛛の糸」を経験してからは、かなり過敏になり、幽霊が触れていれば何となく分かる。

 手水場の屋根に、男の顔みたいなのが出ていたが、最後のはプーチンにも似ている。
 そう言えば、今年はプーチンが暗◆される年だった。
 ババ・ヴァンガは罪作りな予言者で、なまじっか「ウラジミールが世界を制する」なんて言い残したものだから、2015年の予言公開で、プーチンがそれを目にすることになった。
 そもそも征服欲が強い男だから、「これ幸い。天の助けがある」と踏んで、侵略戦争を起こした。
 ある意味、ババ・ヴァンガはこの戦争を引き起こした張本人とも言える。
 だが、この人は二つの予言を遺している筈で、ひとつが「ウラジミールの世界制覇」で、もう一つが「ロシア人によるウラジミールの暗◆」だった。ことが具体的な「暗◆」だから、ネットでは憚られるので、正確には記されないことがほとんどだ。
 ふたつは順番に起きるのではなく、「どちらかに転ぶ」話で、プーチンはいずれ暗◆されるかもしれん。
 この「人の顔」っぽい光と陰を見て、即座に「こりゃプーチンだわ」と思ったら、続いて「今年暗◆される」と浮かんだ。
 もう何万人も殺したヤツだから、報いは必ずコイツに回るし、そうあって欲しい。
 コイツは「自分が世界制覇する」と思っているから、戦争を中止することはない。説得しても無理無駄で、倒すしかない。
 ロシア人や中国人が世界をリードするようになったら、この世は地獄になってしまう。独善的で傲慢だ。だからいつも真っ先に滅びる。
 ま、プーチン本人はブルガリア政府の公開した「ババ・ヴァンガの予言」に眼を通している。だから、そのリスクも重々承知の筈で防御に抜かりないとは思う。きっと手を打っている。敵らしき者は早めに排除してリスクを減らす。

 だが、政敵は悉く誅殺してきた男が路上で斃されるのも因果応報だ。

 私的には、かつての東欧の大統領のように街灯に吊るされると見ている(これは願望だ)。(と書いたところで電話が鳴った。)

 今回、ネット界隈での「NGワード」を書き連ねているが、人道的でない者に人道を説くことほど愚かなことはない。狂人プーチンを止めるには、そいつの命を絶つしかないと思う。いまや人類の敵だ。

 もちろん、「顔みたいな」のは「たまたま」で、総てが妄想であるかもしれん。だが、生かしておくと核戦争のリスクが現実になってしまう。
 この大統領も既にやりたいことをやり、充分にあがいた筈だ。コイツに引導を渡せるのはロシア人しかいない。そろそろ出番ですよ。

 

追記)最初のガラス窓画像は、偶然とは思えぬほど「顔」に見える。まるで東條英機

 コロナの前の「防護服の男」と同様の「お知らせ」だとすると、「戦争」の暗示なのかもしれん。

◎病棟日誌 悲喜交々 2/27「コップの水」

病棟日誌 悲喜交々 2/27「コップの水」
 火曜は通院日。
 前回、左隣の患者が「動脈瘤20ミリ」の右隣の患者と同じ苗字だと気付いていたが、この市内にはよくいる名前なので、別の人だと思っていた。だが、看護師との会話を聞いていると、循環器専門病院を退院し、こっちに戻って来た、とのこと。
 右隣のベッドを去って二週間だから、手術はしなかったらしい。していればひと月は入院するし、その手術自体の成功率が高くないから、いずれにせよ二週間で戻っては来られない。
 血圧が上がれば、前回のように胸痛が起きるだろうが。「騙し騙し」戦法で行くのだろう。
 心臓はベテラン患者なんだな。で、その治療で腎臓を壊した。
 薬物は毒物と同じで、影響の強いものがあるが、最後に行き着くところが腎臓なので、最もダメージを受けやすいのがコイツだ。しかも、コイツは我慢強いヤツだから、最後のまで「イタイ」とか「しんどい」とか音を上げぬヤツだ。
 異変を感じた時には、既に腎不全の真っただ中にいる。
 心臓の薬と糖尿病の薬は、最も腎臓に悪影響がある。
 糖尿病の糖吸収抑制剤は、腎臓向けではなく肝臓で吸収するタイプにしないと、数年で壊れ始める。
 「生活習慣病」というのは、生活習慣だけでそうなるのではなく、それを抑えようと飲む薬を含めての範囲のことを言う。
 よって、状況を改善しようと、きちきち薬を飲む人が先に腎臓を壊す。

 「よかったな。戻って来られて」
 今回は戻って来られたが、ま、じきに瘤が破裂する時が来る。
 それが明日なのか、来月なのかは分らんが、必ず来る。
 「コップの水」という例え話があるが、「コップに水が入っている。それをこれくらい足りないと見るか、まだこれくらいあると思うかで、人生観が変わって来る」というあの例えだ。
 我々に残っているのは、もはや10㌫しかないのだが、まさに「まだ10㌫もある」だろう。
 既に無くなった90㌫のことを考えても何も生まれない。あと10㌫に感謝し、その中でやれることを探す。これがここの患者の生き方になる。
 ベテランになると、次第にこの考え方が身に着くから、割と人生が楽しくなる。
 雑草の青さを見て、生きることに感動する。

 もちろん、悟りを得ることで失うことも多い。
 「自分は、もう約束を果たせない」と思ったのは、もう十年以上前だ。仕事の約束、友だちとの約束、いろんなことがあるわけだが、もはや体が言うことを聞いてくれない。
 会合に出て、帰路にどうしても動けなくなり、最寄りのビジネスホテルに入り、横になって一晩過ごす。これが頻発したので、「もう約束は止めよう」と覚悟した。
 約束してもどうせ果たせぬし、そうなると、自分を責めるようになる。
 そこで、「親の葬式以外には一切出ない」と宣言した。
 私は自分で決めたことをきっちり守る性格だから、これを厳守した。どう思われようが、こちらの状況など他人は理解できるはずもない。他人に否定的に思われる以上に、自分で自分を責めるようになるのが嫌なので。そうしたまでだ。
 たぶん、これが功を奏し、幾度かの危機を乗り越えられて来た。とりわけ、直近の五年くらいは、「特別なケース」を作らなかったから、重大な事態に至らなかったと思う。残念だが、「親の葬式」だけ出る筈が、父の葬式には出られなかった。

 ま、私には「危機が迫ると顔を出すお友だち」が沢山いるから、ガラス窓にそれを見付けたら、すぐに生活を見直す癖がついている。
 充分に働けぬことが原因で、さらに将来の不安が高まるわけだが、その反面、「我に返ると、自分にはまだ沢山の幸福を抱えている」と感じる。失ったものではなく、手元にあるものを考えれば一目瞭然だ。そもそも明日は来ぬかもしれんのだから、先の不安を感じても意味がない。

 てなことを考えさせられた。
 で、ここで気付いたが、「さて、元々左隣にいた患者はどこにいったのか」。
 元の左隣も「血尿出まくり」の患者だった。他の患者がいる前なので医師は明言しなかったが、たぶん、腎臓癌か膀胱癌を患っていた。さては入院病棟に去ったか。

 治療が終わり、食堂に行くと、この日は早くに病棟に入ったので、他の患者がまだ数人いた。いつもは最後の一人くらいだ。
 「おお。見たことの無い人ばっかりだ」
 七十台以降の患者の顔触れがガラッと替わっていたが、ま、なるようになった、ということだ。
 ベッドに居る時に、医師と周囲の患者との会話が聞こえるが、皆が「足が黒くなった」と言っていた。腎臓が悪いと、動脈硬化が普通の人の十倍のスピードで進むから、血行が悪くなり末端の組織から死んで行く。
 七十台以降の患者なら、この病棟に来た時点で、余命は数か月だと思った方がよい。
 だが、それを自覚すれば、「まだ数か月もある」だと思う。
 生活感、人生観が否応なしに一新される。
 それが出来ずに、嘆いてばかりいると、その「天から与えられた数か月の時間」を、ただ煩悶するだけで終えてしまう。
 心疾患や脳疾患だと、発病してその日のうちに亡くなる人も多い。癌なら半年一年あるが、その時間を「貰いもの」だと見なすと、割合楽しく過ごせる。

 私は怠惰な人間なので、もし「明日がある」と思える身なら、たぶん、やるべきことをせず、楽しみ(道楽)にのみ時間を食い潰したと思う。
 今はようやく幾らかPCの前に座れるようになったので、取り置いて来た素材を作品に直している。
 営業活動がもはや無理で、体力的にもう書籍化は出来ないから、ウェブマガジンなど通じて公開することになるが、やれることはまだ沢山ある。

 ちなみに、小鹿野の旅館で「小さい女の子」に会ってから、著しく心身の状況が改善された。「この子に会ってみよう」と思って、あえて小鹿野に行ったのだが、想像した通りそこにいてくれたのは大きい。
 たぶん、今は私の隣にいると思う。
 いずれガラス窓写真にも出てくれるのではないか。
 経済的には瀕死の状況だが、「ベッドから起きられなくて瀕死」の状態よりははるかにましだ。

 記述が長くなった。
 あの世仲間は、私と巫女さま、トラに新しく「女の子」が加わった。今は「同行四人」だが、次第にメンバーを取り揃え、四五十万はいそうな亡者の群れに立ち向かおうと思う。
 あの世仲間は、死んだ後も一緒なので、もの凄く心強い。

 これは直感だが、「女の子」は「まや」とか「まこ」みたいな名前だと思う。

 

追記)「二月の雨」みたいに、「表現は拙いが心を掻き立てる」路線が私の持ち味だと思う。ま、その主対象が「山家の人たち」だから読み手を選ぶ。

 だが、今は少し良い話が書けるようになって来た。これは初めての感覚だ。

 完成されたものなど何ひとつないが、「なあに俺は、人生の総てが現在進行形なんだよ」ってことで。

◎墜落する飛行機 「中山記念はこんな調子でした」

墜落する飛行機 「中山記念はこんな調子でした」
 解題は「馬券師は、墜落する飛行機の中で椅子取りゲームをするようなもの」から来ています。

 

 看護師に一人「競馬好き」がいて、木曜くらいからは治療中に競馬の話をしている。
 土曜には、体重計測がそのオヤジだったので、体重計に乗りながら、「ドーブネです。二着三着付けですが」とオチャラけた。

 結果は大万馬券で、二着がドーブネ。おいおい、本当に来てたのかい。
 一着が当方のヒモのマテンロウスカイで、四着が一番人気のソールオリエンス。こいつが三着に入っていれば、少なくとも三連複は当たるのだが(7百倍)。
 だが、三着は当方が絶対に買わぬジオグリフだった。
 ソールオリエンス(4着)、エルトンバローズ(7着)、ヒシイグアス(11着)が馬券内に来てくれれば、二着がドーブネ固定なので、大体「帯」だった。

 (こいつら、もろに大阪杯仕様だったわけだ。)
 一つひとつは買える要素があったのだが、この組み合わせでは買えない。特にジオグリフのヤローだ。

 その前の週のフェブラリーステークスも、難しい一着二着を選んでいたのに、三着が抜け目。

 年明けからずっとこんな調子で、日曜が来る度に血圧が二百越えざんす。

 ま、馬券を入れた時点で、卓上電話がまったく鳴らぬので、「外れたか」とレース自体を観ないわけだが。この回線の繋がっていない「オバケ電話」は、時々、「プルン」「チリン」と鳴り、当たりか外れかを教えてくれる。お願いだから、事前に当たりだけ教えて(W)。
 このところの空振りの仕方が異常だ。
 ここで一首。


 ひゅうひゅうと 北風に飛ぶ 外れ券 襟を掻き寄せ ホームに急ぐ

 

◎眼は「穴」の標識


◎眼は「穴」の標識

 前回の八幡神社の画像について、「穴」に「眼」が出ているが、これは「標識」と記した。これまで幾度も記述して来たので特に説明しなかったが、知らぬ人も多い筈なので、少し解説を加える。

 「穴」とは「この世とあの世の交流点のこと」で、形状が丸く見え、その中は光が屈折の仕方が周囲とは異なっているので、「まるで穴のように見える」ことで、そう名付けた。

 鮮明な時と、そうでない時があるが、薄らぼんやりと「黒い穴が開いている」。

 一地点に存在することもあれば、空中に浮かんでいることもある。

 私のように、人間の周りにもこれが出ていることがある。

 で、その周辺には、「幽霊が数多く現れ、さらにそれが可視化しやすい」と言う傾向がある。

 

 「穴」の中には「眼」のようなものが見えることがあるが、これは「あの世側からこの世が見え」、「幽霊たちがこの世に関心を寄せている」ことで生じるようだ。

 特定の者の眼ではなく、数多くの幽霊たちがこちら側を凝視している。

 集合的なものなので、象徴と同じ。

 私の場合は、自撮りをした時に、カメラのファインダにこの眼が映るが、自分自の眼のかたちではない。おそらく穴の眼だ。

 私には幽霊が数多く集まるが、これも「穴」が常にすぐ傍にあることによるようだ。

 これが、O先生の言っていた「神霊体」と言うことの意味だと思う。

 

 「穴」には様々なパターンがあるが、「黒い球状」のことが多い。「黒い」のは周囲と光の屈折率が違うことで起きる。よって、「黒玉」と呼ぶこともある。

 見慣れると、ただの陰影との違いが判別できるようになる。

 

 これは印象の話だが、秘密結社の「イルミナティ」の象徴である、「ピラミッドに眼」のデザインを見ると、私はその都度「穴の眼」を思い出す。

 案外、関係があるのかもしれん。

 

◎扉を叩く音 R060226

扉を叩く音 R060226
 「深夜、玄関の扉をノックする音が聞こえる」話の続報。
 既に、数年前から「ノック」の音がしなくなったが、これは既に「扉を突破して、家の中が出来り自由になっている」ことによる。

「令和六年二月二十六日 午前一時半の記録」
 居間で寝入っていたが、二週間ぶりに悪夢を観た。
 「障害があり、思うような動きが出来ない。満足とは到底無縁の生活を送っている。日々が苦痛ばかり。これでは、この先生きていても意味がない」
 これを繰返し、心の中で呟く。
 だが、ここで気付く。
 「この声は俺の声ではなく、女の声だ」
 要は、誰かが自分の心に厭世観を吹き込んでいるということ。

 この時、玄関の扉が「ガチャ」と開閉する音が響いた。
 (この時点では、半覚醒の状態。)
 「息子がゴミでも出しに外に出たのか」とぼんやり考える。
 だが、戻って来ない。
 「なら、もう朝で、誰かが出掛けたのか」
 ここで、ようやくぼんやりと4/5覚醒し、スマホの時計表示を見る。
 すると、午前一時半を回ったところだった。
 これで「さっきの玄関の音は本物ではない」と気付いた。この時刻に出掛ける者は我が家にはいない。

 現実の音ではなく、私に「自分の存在を報せるため」の「心だけに響く音」だったのだろう。(もちろん、実際の音のこともある。)
 私の意向とは関係なく、テレビのチャンネルを繰り返ししつこく替える振る舞いと一緒だ。「行き先がその都度別」であることに、意志を感じる。

 自分の思う通りに、私の心を支配しようと考えている。

◎霊界通信 R060224 玄関の前に立つ女

◎霊界通信 R060224 玄関の前に立つ女

 土曜日の朝、娘を駅まで送ると、今度は自分が通院する番で、急いで家を出た。

 隣には新しい家が建っているが、三月の転居時期に合わせて売り出すようで、まだ売り家の看板が出ていない。

 その家の前を通りかかると、玄関の前に「女」が立っていた。

 ちょうど小鹿野で見た少女の画像のように、景色に溶け込んでいるが、しかし、浮き上がってもいる。

 「おいおい。朝からなんだよ」

 しかも、新築物件だ。

 ま、建ったばかりのビルでも幽霊は出る。開業数か月のホテルだと言うので、安心して泊ったら、夜中に声がして驚かされたことがある。端部屋なので、声が聞こえた壁の向こうは外だし、そもそも六階だか八階だった。要は空中から聞こえたということ。

 「地鎮をちゃんとやらなかったのか」

 隣家は元々工場兼住宅で、機織り工場が隣設されていた。居間の新築住宅は庭の一部に建ったが、そこはやたら湿気が多く、変な感じだった。 

 

 だが、病院で横になっている時に、「必ずしもその家の土地に関係しているとは限らない」と気が付いた。まるで誰かを待っているような風情で道の方を見ていたからだ。

 「俺が出て来るのを待っていた、というケースもアリだな」

 何せ、二十年近くの間、当家では「夜中の二時に何者かが玄関の扉を叩いた」という実績がある。

 「コツコツ」あるいは「べたべた」(手の肉月で叩く場合はこの音)。

 

 「こりゃ八幡さまに行かないと」

 そこで、病院の帰路に八幡神社に参拝することにした。

 最近は煩く騒がられぬので、それほど酷いことにはなっていないと思うが。

 

 画像自体は物凄く難易度が高く、こういう画像を大量に見ていないと分からぬと思う。

 私は何千枚経験したし、当事者でもあるので、すぐに判断がつく。当事者は、直接視線を向けられるし、声が聞こえたり、間近の気配も感じる。

 よって詳細を書くのは控えるが、結論は、「女は私を待っていた」のようだ。

 

 かつて、神社猫のトラは、五十㍍以上離れたところにいるのに、私が来たのを悟り、境内の端から走り寄って来た。最初は点の大きさだったのが、「ニャア」「ニャア」と啼きながら走り寄って来たが、一体何を見付けてそれが私だと判断したのかが分からない。

 改めて考えると、たぶん、私の周りにある煙玉か「穴」を見て、それが私だと見て取ったのだと思う。

 「穴」は周囲の景色と光の屈折率が違うところで、多く丸く見える。だから「穴」と呼ぶようになったが、この世とあの世が急有する空間(もしくは地点)なので、幽霊がよく集まる。

 時々、私の後ろには、長々と幽霊が連なるムカデ行列が形成されるが、目当てはこの「穴」なのではないか。

 すぐ後ろに林(もしくは木々)が迫っているように見えると思うが、実際には後ろは手水場で、右側の灌木の林はそれより二十㍍は後ろ。左側は駐車場で、木々があるとすれば七八十㍍以上離れている(映らない)。

 それが近くに見えるのは、要は「レンズと同じ効果を果たしている」ことではないかと思う。

 

 光(の波長)や視覚効果を研究すると、幽霊の見え方、見方が分かるようになる。

 小鹿野の右側の少女が分かりよいのだが、注視しないとそこには何もないように見てる。

 だが、誰もおらず何も置かれていないベンチが「何かに隠されている」ことを手掛かりに、隠しているものの輪郭を辿ると、初めて少女の姿が眼に入る。

 これが気のせいではないのは、「ベンチが隠されている」という事実による。

 

 ポイントが幾つかあるが、「ない筈のものがある」「あるべきものがない」「光の進行方向が歪んでいる(屈折率が変化)」が最初の着眼点だと思う。

 ま、繰り返しになるが、当事者は、さらに声が聞こえたり、気配を感じたりする。

 

 足を一晩で腐らせた「病院の女」も、まだ近くにいたから、時々、体にかかった手を振り払う必要があるようだ。

 幽霊は死の匂いを感じて寄って来る。

 幽霊にまとわりつかれると、死期が一層早まる。

 と言う傾向があるから、先んじてその手を払いのけると、寿命通りに死んで行ける。

 

 肉眼では子どもの姿が二人見えていたが、「騙し」だったようだ。

 小鹿野の女児のような子どもなら、「傍にいてもよい」と許すのが分かっているので、子どもの姿をしていれば、私が無下に払いのけることはない。五歳のようだが、実は「ごうつくババア」だったりもしそうだから、見た目で判断してはダメなのは、この世もあの世も同じだ。

 

 いつも記す通り、「霊感」「第六感」は誰にでもある。特別な能力などでは全然ない。

 幽霊の存在が信じられぬのは、間違った教育や信仰を与えられて来たため、眼が曇っていることと、見方を知らぬことによる。あとは先入観と恐怖心が邪魔をして、見えていてもそれを認めようとしないことによる。

 まずは馴染むことが肝要なので、最後に小鹿野の画像を再掲して置く。

 最初は景色に溶け込んでおり何も見えぬが、二枚目には「そこにいる」のが分かると思う。

 とりわけ、右側の女児は、確実に背景(ベンチ)の前に立っている。この子には悪意も怨念もないから、安心して観察出来る。

 これが始まりで、幾度も見ているうちに、捉え方や目の付け所が分かるようになる。

 幽界は誰もが進んで行く道にあるのだから、これまでの誤った無駄知識を捨てて、冷静、客観的に眺めると真実が見え始めると思う。

 メリットは何かは私を見れば分かる。幾度も死に掛けて来たが、その都度、自分なりの除霊浄霊で乗り越えられて来た。

 これまでやって来たことは、「死者に敬意を示すこと」と「手を掛けられたら、その手を払う。それでも離さなかったら、ご神刀で斬り捨てる」という二つのことだけだ。

 左側の画像で異常を感じる人は少ないのだが、これは「景色に溶け込んでいる」ためだ。右は同じ画像だが、光の屈折が見られる箇所を丸が込にした。これだけで少女や幼女の姿が浮かんで来る。右側の幼女は「本来何もない長椅子の上が隠されている」ことで、「気のせい」ではなく、「そこに何かがいる。ある」と分かりよい。

 「直感」または「霊感」の本質は、「耳では聞こえ難いが存在する音」を聞き、「眼ではそれと確認し難いが存在する姿」を見ていることによる。具体的にそれと認識し難いのだが、しかし、実際には聞いたり見たりしている。

 その幽霊のプロフィール的なもの、もしくは背景に関するものは、主に想像によるもので、これは「いわゆる霊能者の説明が人により千差万別」であることで分かる。要は印象を語っており、あやふやだということ。あるいは、(幽霊の)断片的な言葉の影響があるのかもしれない。

 ちなみに、この時には、過去の同じ場所で撮影した画像の中に、右側の幼女らしき姿を見付けたので、「同じ場所に行けば、また会えるかもしれぬ」と考え、この場所を訪れたものだ。すると、実際にこの子がいた。

 このことで、かつて湯船に浸っている時に「かさこそ」と何かを離す声がしたのだが、それが子のこの声だということに初めて気が付いた。

◎病棟日誌 悲喜交々2/24 「ババアの後始末」

病棟日誌 悲喜交々2/24 「ババアの後始末」
今日は本当に「とるに足らぬ日々の記録」だ。

 朝、病棟でタマちゃん(看護師)が「何か異状がありますか?」と訊くので、「五十ババアにカートを引っ掻けられて踵に傷が出来た」と足を見せた。
 「ありゃほんとだ。すぐ消毒しときますね」
 処置の間、延々と「五十ババア」の悪口を言った。
 「スイマセンと言う言葉に全然心がこもっていなくて、逆に『何でお前がそこにいるんだよ。お前の方が悪い』みたいに思っているのがアリアリと分かる。そこが腹が立つ。女が運転が下手なことが多いのは、持って生まれた性質で、とにかく自分と自分の子を守る動きをするから、視野が狭く車両間隔の取り方がヘタクソだ。相手よりも自分を中心に考える」とかナントカ。
 だが、こっちは足に血豆が出来ただけで、それが一気に化膿して骨が見えるほど組織が溶ける。実際、踵の血豆から派生した傷が治るのに三年近くかかった。
 「そういうのが想像出来ないのが五十ババアなんだよ」
 ひとつ間違えば、これで足を切ることになりかねん。
 そんな状況は普通の人でも想像できないわけだが、丁寧に教えたって、こいつらには分りはしねえ。

 ここで、「周囲に五十ババアが沢山いるなあ」と気付いたが、別に「そのババアと自分は違う」と思えばそれでよい。
 当方は、見境なく当方の足にカートを引っかけて置きながら、ぞんざいな謝り方をする「あのババア」のことを言っているわけで。
 ああ、いまだに腹が立つ。

 画像はこの日の病院めし。
 この病院は食事が割合美味い方なのだが、炒飯系は不味い。
 ドラム型の製造機で一斉に作るのだろうが、良い機械ではなく味ムラが出来る。
 ま、この日はチキンライスだから、まだましだった。

 

 壁際でひとり食べる病院めしは、さすがにもの悲しい。

 これぞ「壁際の死にそこない」オヤジジイだ。

 当方は「死に際の魔術師」だから、いつも「際」にいるのは間違いなし。 

 

追記)次からは、こんなヤツ(ババア)には、「気を付けてくださいね。訴えませんから大丈夫ですよ」と握手を求めることにした。その時に、当方の「お友だち」を一匹渡す。

 想像以上のしんどさだぞ。

 家に誰もいない時、ダンナや子どもの声(に似た声)で「オカーサン」と呼ばれる。
 スマホから「クゾ※※ア。取り憑いてやる」と言う声が響く。