日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎病棟日誌 R060725 泡沫の夢

病棟日誌 R060725 泡沫の夢
 エレベーターに乗ると、モニターに「四文字熟語」の出題が映し出された。
 「役▢之▢」
 うーん。こんなの知らんぞ。
 あとで考えよう。

 更衣室に行くと、いつも同じ時間に来る男性がいた。70台後半で白髪頭。小柄で物静かな高齢者だ。
 だが、この老人はこの日は天気の話から始まり、いつになく饒舌に話した。舌が良く回らなくなっているせいか、半分も分からぬが、とりあえずテキトーに相槌を打った。
 頭の中で「今日はどうしたんだろ?」と考えた。

 朝の問診はこの日もユキコさん。
 足は「四年ぶりに傷が塞がりました」と患部を見せた。
 子どもなら二三日、大人でも一週間で完治する傷が、当方らは二年掛かるか、足切断だ。この四年間は常に足の指から血と膿がダラダラ流れていた。今は痛みがあっても傷自体は塞がった。
 「もの凄く良くなりましたね。普通の人なら当たり前の状態なのですが、我々にはそうではない」
 これが一線を踏み越えた者が味わう経験だ。

 ベッドでは、息子から貰ったタブレットを勉強しようとしたが、ワイファイが繋げない。自動検索しないらしく設定の必要がある。院内はスマホの繋がりが悪いから、ワイファイを設定すれば動きが良くなると思う。ま、寝転んでいては何も出来ぬから、次回にした。

 治療が終わり、食事に行くと、朝の老人と、いつもの老人が別々の椅子に座っていた。風貌がそっくり。
 「それじゃあ、朝のあの人はいつもの人ではなかったわけだ」
 いつもの人にそっくりな新規入棟患者だった。
 年寄りは似て来るし、さらに死に掛けの患者だから、余計に風貌が近くなる。そもそも美人看護師ならじっくり注視するが、ジジイの患者など詳細に見るわけがない。
 だが、二人は食堂ではまるで違う。
 新規の患者は半分も食べられずに去ったが、いつもの人は時間をかけてゆっくりとだが、残さず全部食べる。
 7年間、他の患者を観察して来たが、長く生きられるのは「全部食べる」方だ。四十分かけてでも残さず食べる。
 八十近くなり、多臓器不全症の果てにここに来ると、余命はひと月ふた月で、食事が食べられなくなっている。その時に、踏み止まってきちんと食べる患者は半年一年死期が先に遠ざかる。
 たった半年一年だが、己の死を自覚してからの時間はとてつもなく価値がある。草木や動物など命を眺める視線が変わって来る。その意味では、他の患者に学ぶことが多い。

 冒頭の四文字熟語は「役夫之夢」。昼間は主人にこき使われている使用人が「夜は夢の中で王になって楽しんでいるから平気だ」と言ったという故事から、人生の栄華や栄光は夢のように儚いということのたとえらしい。
 原典に当たる必要がありそうだ。

 夕方になり、叔母にお中元のお礼の電話を掛けた。
 叔母にも「座敷童」の写真盾を送ったが、「神棚に上げて拝んでいる」とのこと。叔母の生家の向かいの家が旧家で、「座敷童が出る」家だったそうだ。叔母は自分自身で間近に見聞きしているから、そういう存在を信じる。
 当方は自分の眼で直接見ているから当たり前で、自分の眼で見たものを信じられなくなったら、この世に信頼できるものはない。この場合、哲学論議は不要だ。役に立たない。
 叔母とは「人生にとって最大の宝は健康」ということで意見が一致した。当方は障害者で、叔母は再発癌を患っている。

 お稚児さまに会ってから、あの世をあまり意識せずに暮らせるようになり、今は毎日原稿を書いている。
 もちろん、限界はあるが、この時間の有難さが身に染みる。

◎病棟日誌 R060703 進むジジババ化

病棟日誌 R060703 進むジジババ化
 ジジイ化が進行し、朝の四時台には目が醒める。最近は決まって、変な妄想を観るのが目覚めの引き金になっている。
 「隣に女性が横になって居り、無意識にその女性の脚(膝小僧の上あたり)を撫でる」みたいな妄想だ。もちろん、女性は三十歳くらい。
 それと同時に、やや下の話だが、「金袋が痒くなる」ので、眠ってはいられなくなる。痒いのは金袋の外側ではなく内側だからインキンではない。
 たぶん、亜鉛錠剤の影響だと思う。「カルシウムの流出を防ぐために、あれがこうして・・・亜鉛を補填する」という風と桶屋の改善策だ。亜鉛マグネシウムは男性機能を起こすので、こんなことに。
 ま、更年期を過ぎ、男性ホルモンが眠ってしまうと、その途端に前立腺がんになったりするから、ある程度は維持した方が無難なのかもしれん。
 しかし、性的欲求は既にほとんどなく、きれいな女性を見ても「花を愛でるように」きれいだと思うだけになった。
 妄想で隣に小奇麗な女性が寝ていても、撫でるのは脚のごく一部だ。滑らかな人肌は撫でると感触が気持ち良かったりする。
 ま、妄想だけなら害はない。
 亜鉛錠剤ひとつではっきりした変化が生まれるのだから、割と人間の体は単純に出来ている、とも。

 この日の穿刺の担当はユキコさん。
 五年以上、この病棟で世話になっている。
 今は60近い筈で、さすがに顔の周りは徐々にバーサン化して来た。当方だって持病アリだから、普通の人以上にめっきりジーサン化した。
 だが、ユキコさんは運動好きだし活発だから、肌が滑らかだ。
 腕などはスベスベなので、実年齢よりはかなり若い。
 53歳くらいのところに分岐点があるようで、その先、バーサンになるか若さを保つかははっきりと分かれる。
 やはり健康が第一で、病気をすると一気に老ける。

 ここで家人の昔話を思い出した。
 家人が40台の頃、今より20キロ近く痩せており、ほっそりしていた。外人だから、顔のつくりが割とはっきりしている。
 駅のベンチに座っていると、時々、高校生がナンパに来たそうだ。
 だが、高校生は「あのー」と言ったきりそのまま背中を向けて去ったそうだ。だが、仲間のところで話す声が聞こえた。
 「なんだよ。オバサンじゃねーか」
 「ギャハハ」
 遠くから見たので分からなかったらしい。
 もちろん、家人はプンプン怒った。
 その後、家人は40台の半ばから、一年に2キロずつ太るようになり、今はバルーンのようになった。
 「その調子じゃあ、俺より先に死ぬぞ」
 この場合は、「今年来年の話」になる。
 そこで家人は今年の四月に一念発起して、朝夕、駅から家までの1.5キロを歩くようにしたら、少し痩せた。
 だが、学校が夏休みに入り、家に居るようになったら、「五日で前より太った」。自分の部屋でこっそり隠れてお菓子を食べていたらしい。何せ時間はたっぷりある。
 言い草がこれ。
 「ぽっちゃりしていると、皺が目立たなくなるから若くなる。奥さんが若いのと皺皺のババアなのとどっちがいいのか」
 いやいや、ポッチャリでも構わんが、バルーンは不味いだろ。
 外見ではなく生き死にの問題なわけで。

◎古貨幣迷宮事件簿 「絵銭の母子とK村さんの思い出」

◎古貨幣迷宮事件簿 「絵銭の母子とK村さんの思い出」

 水沢のK村さんは南部貨幣の収集家・研究家で、偏屈なことで名を馳せていた。

 こういう書き方をすると、揶揄するように読めるかもしれぬが、そんなつもりは毛頭ない。偏屈さでは今や私も負けぬつもりだし、そもそも高校の大先輩だ。

 悪口めいた表現をするのは、親しみを感じているから、ということ。

 まずはそのK村さんの思い出話から。

 二十五年は前になるが、K村さんが各地古銭会に持参して披露した品がある。

 寛永当四銭の俯永の密鋳銭で、真っ赤な品だ。

 K村さんは、一切その品の素性を説明せず、盆回しに「下値十万円」で出品した。

 それを見た誰もが首を捻り、一人も声を発しなかった。

 見事にきれいな南部銭風の真っ赤な品だが、母銭なのか。

 地元の者は真っ赤な浄法寺銭なら見慣れているが、何となくそれとは違う印象だ。

 うーん。

 現物がどこに収まったか知らぬが、最初の感想は「密鋳銭としてはいかにも高額だ」だったろう。私もそう思った。

 今思えば、K村さんはあの時誰かが気付いて「これはこういうことか?」と言い出すのを待っていたのではあるまいか。

 それが話の端緒になる。その入り口のところに達していないなら、説明をしても伝わりはしない。要は「黙って出す」のは「踏み絵」だったのだろう。

 

 今では記憶でしかものを言えぬが、たぶん、あの品について、K村さんは「栗林銭」だと思っていたと思う。地金が浄法寺山内銭に似ているが、整い過ぎていた。

 山内銭にも当四銭はあるが、おそらく当百銭を製造した折に、余った銅材を使用して作ったのだろう。

 一方、栗林では当百銭の残余物、例えば枝の部分などは、銅絵銭に利用されたことになっている。大黒銭や虎銭で、これらはいずれも同じ地金の配合で仕上げ方も同じだ。

 だが、それだけでなく、当四銅銭も幾らか作ったかもしれぬ。

 あの当時、私は栗林銭と橋野銭の区別がつかぬような状態だったから、まったく想像も出来なかった。

 「なんだか栗林銭に似てますね」のひと言で、K村さんの解説が聞けたかもしれぬ。

 K村さんは知識の宝庫だったから、聞くべきことが沢山あったのに、食い付いて話を聞くことをしなかった。ま、こちらの知識が乏しく追い付けなかったこともある。

 今はただ残念だ。

 

 そのK村さんの旧蔵品の絵銭のひとつが画像左の品だ。

 直接訊くことは出来ないわけだが、ホルダーに見解の断片が記してある。

 銭種は「急ぎ駒」としてあるが便宜的なものだろう。馬子が慌てているように見えるからK村さんがそう名付けた。

 型自体は「唐人駒」と呼ばれる割とポピュラーな絵銭の駒が踏襲されているので、「唐人駒の手替わり」という解釈になっている。

 問題は「母」という見解だ。

 絵銭の母銭は、通貨と異なり、明確な線引きが出来ないことが多い。

 これは製作手順が違うことによる。

 通貨の場合は、ひと吹きに何百万枚も作るから、先に母銭の数を揃える。700万枚かの製造を企図するなら、予め母銭を1千枚から数千枚の規模で揃える。母銭製作が完全に終わってから、型場の規模(人数)を拡大し、通用銭の鋳造に移る。

 この段取りになるのは、もちろん、人件費を極力抑えることが目的だ。

 絵銭の場合は、鋳造枚数の桁が違う。一絵銭種につき数百枚程度のこともあったろうから、基本は少人数の工房で直し直し製造する。必要に応じ鋳造するので、状態の良い品を母銭として使って、というやり方をしたようだ。このため、母銭としては製作の甘い品が多いから、見分けに付きにくい。

 

 一方、「母銭として使用してある」のなら、もちろん、母銭だ。

 内郭や輪の処理具合がどうであれ、母銭使用したなら「母銭」になる。きれいきたないは関係ない。

 砂笵を数百回作成していると、母銭の全体が摩耗するが、流通による摩耗とは異なり、谷の部分も山と同じように摩耗する。打ち傷が少なく、摩耗が細かいので、それを母銭使用したことが分かる。

 背長銭などは存在数に較べ母銭の数が極端に少ないが、「きれいで母銭らしい母銭」を見ているからそういう見解になる。通用銭を見る限り、砂笵の出来不出来以上に型が崩れている品が多く、質の悪い母銭を使用したことが窺える。「長」字が潰れている品の方が多いほどだ。実際に母銭として使った「見すぼらしい母銭」を母銭と見なさぬので存在数が少なく見える。

 

 話を元に戻すと、唐人駒に比較すると、やはりこの「急ぎ駒」存在数が少ないようで、合わせをする銭を探すのに苦労した。ようやく雑銭から選り出したのが右の品だ。

 ちなみに、奥州ではこの品を見掛けることは殆ど無いのだが、産地製造地が江戸や上方だからなのかもしれぬ。これはその方面在住の人が分かると思う。

 左右を比べてみると、相違は次の通り。

・銭径は左の方が少し大きく、輪側に僅かに傾斜がつけられている。

・意匠を拡大して見ると、図案の鮮明さがまるで違い、右は潰れている。

・使用の状況(摩耗痕)については、それほど大差がない。これは製造枚数が少ないことと、絵銭は信仰用で、基本的に人間(じんかん)流通しないことによると思われる。

 

 図案の鮮明さと大きさから見て、世代の違いが存在すると見られるが、左を母銭として使用したかどうかは「分からない」が妥当だと思う。一世代上の者であることは確かだ。

 輪側に対し故意に傾斜を付けているところを見ると、「型取りを想定した」だろうことは想像出来る。三枚目の比較図で分かる通り、遠目ではそれほど違いが無いように見えるのに、拡大すると意匠の精緻度がまるで違う。

 母子の区分は明確な基準を設けることが出来なさそうだが、つくりや出来映えは左の方が数段上の品だと思う。

 そういう見地からしても、通貨と絵銭は視角自体が別の分野のようだ。

 

注記)いつも通り、一発撲り書きです。

 

 

 

 

◎病棟日誌 R060720 自分の娘みたい

病棟日誌 R060720 自分の娘みたい
 今週は治療の初めか終わりは必ずエリカちゃんだったが、この日の終りもこの子だった。
 長女と同い年のせいか、つい娘に対するように 接してしまう。
 エリカちゃん本人には「馴れ馴れしいオヤジ」だと思われているかもしれん。
 ま、どう思われるかはどうでもよい。

 エリカちゃんはバイク乗りで、片道五百キロくらいは普通にバイクで出掛ける。
 バイクはやはり車よりもリスクがある。
 ふと思いついて、お稚児さまキーホルダーをあげることにした。
 「バイクの鍵に付けとくと良いよ。事故に遭っても死なずに済む」
 すると、エリカちゃんが「トダさんが同じものを持ってた」と言う。先日、トダさんに差し上げた後に、治療終りの処置をしたらしい。
 「どこで買ったんだろうとおっしゃっていました」
 そこで、「これは買ったものではないよ」と答えた。
 「一月に温泉に行ったら、そこで座敷童が出たから、その写真を入れてみたんだよ。だから買えないし、俺は効果がありそうな人にしか上げないからかなりのレアものだわ」

 エリカちゃんは、背中に老婆を背負っていたことがあり、その場で「厄落とし」のやり方を教えた。
 生まれつきなのかは知らぬが、人にはあの世の者と関わりやすい人とそうでない人の二種類いる。エリカちゃんは関わりやすい方だ。
 当方はバイクに乗っている時に、右腕を何かに掴まれてハンドルが切れず、正面からガードレールに衝突したことがある。肋骨を折ったが、腕が固定されたまま、スローモーション画面を見るように、ゆっくりと衝突した。
 「手を掴まれる」など、一生に一度か二度あるかないかのケースだろうが、その一回であの世に行かぬためには、こういう護符を持っていた方がよい。
 事故自体は殆どが人為によるから自分で気を付ければ滅多なことにはならないが、数㌫くらいの確率で、「人為ならぬ要因」が働くことがある。
 あとは「必ず自分を守ってくれる」と信じられるかどうかだけ。 
 お守りや護符の類は信じなければ何の効力もない。

いつも記すが、「信じる」ことと「願う」ことは似ているが心の持ちようが違う。「頼る」になったら、丸で違う。さらに目的が現世利益なら、何をかいわんや、だ。
 千円のお守りで幸運が買えると思うのは誤りだが、五百万で壷を買っても、同じことだ。その時点でイカサマ宗教だと気付けよな。他者に頼る者にはなにも来ない。

 トシを取ったのか、40歳くらいから下の女性は総て「娘目線」で見るようになっている。困ったもんだ。

◎霊界通信 R060719 声を掛けられる

霊界通信 R060719 声を掛けられる
 朝の六時過ぎに、娘を駅まで送って行ったが、家に戻る途中、道を歩いていると、背後から「おとーちゃん」と声を掛けられた。
 家人に似た声だった。
 振り返ったが、誰もいない。
 早朝なので、歩いている人はいない。
 こういう時の声は「気のせい」で済ませられる大きさではない。

 前に向き直り、「ダンナを『おとーちゃん』と呼ぶのは少数派だから、俺を呼んだのかもしれん」と思った。
 もちろん、家人のふりをして、ということだ。
 幽霊が人間に近づくアプローチの仕方には、「身近な者に化ける」「当人に化ける」方法がある。身近なだけに気を許し受け入れやすい。 
 順番的には、「身近な者」→「当人」で、目的は「その人の自我の中に入り込む」ということ。

 当家では「真夜中に玄関の扉をノックされる」出来事が十五年以上続いたが、いつしか扉を越えて中に入るようになった。
 その時の最初の兆候は、「玄関の扉が開き、家人の声で『おとーちゃん。※※が※※だよ』と言う」パターンだった。
 そのまましんとしているので、玄関に出てみるが、そこには誰もいない。

 その後で、家人を駅まで送った。
 その帰路、駐車場に車を停め、エンジンを切ると、その直後に「あ、あああ」という女の声が響いた。
 直感的には、こないだ神社の時に寄り憑いて来たバーサンではないかと思う。
 当方は幽霊に対し心が広いから、先方も「きっとよくしてくれる」と思うらしい。
 だが、大間違いだわ。当方の性格は、よく言えば「厳しい」、悪く言えば「性悪」だ。そうでなければ生き残れないもんで。
 こういうのは、いつものことだからもう慣れた。

◎病棟日誌R060718 生煮え

病棟日誌R060718 生煮え
 朝、ロビーに入ると、ガラモンさんが一人で長椅子に座っていた。いつもはもう二人の男性患者がいるのだが、一人は検査の手続きに行っているし、もう一人は今週から「週1回になった」らしい。
 後の人は、病状が改善され、透析の必要が減じたとのこと。
 スゲー。慢性腎臓疾患が「改善する人もいる」とは、「話には聞くが実際には見ることの無い」事例だ。座敷童など妖怪と同じだが、実際には存在している。
 同じ病棟で三百人は患者を見ていると思うが、良くなった人は皆無だ。
 一説によると「一年間で一人か二人は完全治癒する人もいる」らしいが、それなら確率的には三十万分の一だ。
 そういうケースになってみたいが、ま、通院が週に2回くらいになってくれれば、出来ることの幅も広がる。

 番号札を取りに病棟の前に行くと、車椅子に乗るAさんがぽつねんとドアの前にいた。
 入院病棟は忙しいから、早いうちに運ばれて放置されたわけだ。
 明るい口調で「調子はどうですか?」と声を掛けると、「前よりはいいですが、転んで肋骨を三本折りました」とのこと。
 言われてから見ると胸元にギプスが巻いてある。
 この人は一年中、こんな調子で、よく転んで脚や腰を骨折している。腎不全患者はカルシウムが欠乏するので、骨が弱くなっているから、簡単に折れる。生来、そそっかしいところもあるようで、車を買い替えたら、その月の内に踏み違えでガードレールに衝突し新車がパアになった。
 ま、踏み違えは基本的にオートマ車の構造的な要因による。

 だが、Aさんの声に張りがある。
 本人の言う通り、改善に向かっているのだろう。
 思わず心中で、「このババアはどれほど不死身なんだか」と舌を巻いた。
 何百人もが、いざ下り坂になるとあっという間にこの世を去るような病棟に居て、二十年以上生きている。
 しかもつい最近まで働いていたし、歩けるようになったら、また働くつもりらしい。
 「努めて明るく考えるようにしましょう」と励ました。

 ま、どんなに不死身でも病気の影響が確実にあり、Aさんは57歳なのに70歳台後半に見える。

 ベッドにいると、ユキコさんがやってきた。
 この日は担当ではなかったが、何か言いたいことがあるらしい。
 話は前日の出来事だった。
 「昨日は休みだったので、夫と一緒に※※町の和食屋さんに行きました。ご飯を釜で炊く店で、夫が一度行ったことがあります」
 すると、平日にもかかわらず、客が沢山いて、順番待ちで30分並んだらしい。
 「でも、盛り合わせ(たぶん刺身)は何だか少ないし、お釜のご飯には芯があったの」
 ご飯に芯があるんじゃ、お釜で炊こうが「食えねえ」って話だ。
 状況を聞くと、その店は幾度かテレビでも紹介されたらしい。
 「それだ。有名店になったから、切り盛りが間に合ってない」
 それと昨今の物価高で、円安の前の水準ではもはや客に出せなくなっている。
 客が増えたが、いちいち客ごとに釜で炊くから時間がかかる。
 遅くなると、「遅い」とキレる客が出るから、焦って早めに出す。これでよく炊けていないご飯が出来上がる。
 要はオペレーションの限界を超えた、ということ。
 飲食店では「取材お断り」の店があるが、これは自分のオペ体制を知っているから、「容量を超えた客が来ると営業が成り立たなくなる」と判断することによる。

 かなり前、息子が小学生の時に群馬に出掛け、その帰路に、ラーメン店に立ち寄ったことがある。
 田舎なのに、客が沢山いたが、回転が速そうだったので、そこに入った。
 店内で壁を見ると、テレビや雑誌で「紹介されました」と言う記事が貼ってある。ラーメン評論家が「食べるべき」とネットで書いた。
 これで、「田舎なのに行列」の意味がっ分かったが、同時に嫌な予感がした。
 案の定、出て来たラーメンは生煮えで、上げるのが早すぎ。
 さすがに半分も食えず。
 そもそも、「評論家」みたいなのは、謝金を貰えば忖度記事を幾らでも書く。
「食べロ※を信用するほどのバカで無し」とはよく言ったもんだ。
 繁盛店だからうまいだろうと思うのが浅はかで、テレビやネットで激賞されている店は、逆に疑って掛かった方が良い。
 大体は並んで食うほどの価値はない。正確には「なくなっている」だ。

 ユキコさんは、「あんなことなら、※※の※※の方が断然いい」と言う。
 その店は、前をよく車で通るが、交通条件的に入り難い位置にあるから、これまで入ったことが無い。ひとことで言えば駐車場が狭い。
 だが、一つひとつが気が利いていて、感動するそうだ。
 「こりゃ、世間に知れる前に行っとかねば」と思った。

 ちなみに、「炊けてないご飯」「生煮えのラーメン」という言葉で、反射的に「それって俺のことだよな」と思った。
 人生が「生煮え」だ。
 はい、どんとはれ。

◎病棟日誌 R060716 人はそれぞれ

病棟日誌 R060716 人はそれぞれ
 治療後に食堂に行くと、この日はカレーだった。
 たまたまジーサン患者がいたが、「ここのカレーはカレーの味がしない」とこぼしていた。
 実際、何かしらの香辛料は使っているが、普通の「カレー粉」の類は使っていない。入院患者に食わせる食事だから当たり前だが、たぶん、それっぽい代替品が使用されている。
 「カレー」ではなく「カレーもどき」だから、それを不満に感じる人もいるわけだ。
 当方は割合この「もどき」が気に入っている。カレーっぽい味だが刺激が少ない。ターメリックはほんの少しだけ入っているかもしれんが、これは香辛料と言うより薬だ。体に必要なものを美味く感じるから、その効果だと思う。

 夕方、食事の支度をしていると、家人が帰って来た。
 そのまま、ダンナの後をついて歩き、娘の悪口を言う。
 「愛想がなく物言いが悪い」
 実際、次女はぶっきらぼうで癇癪持ちだ。
 「元々が偏屈なヤツだが、心身共に傷ついたから今は心が曲がっている。何年も掛かるかもしれんが、そういうのを見守って支えるのが親であり家族なんだよ」
 「でも何?あの言い方は」プンプン。

 だが、買い物袋を開くと、娘の好みそうなスイーツが入っていた。
 「これはあの子が好きだから買って来た。半額だったし」
 悪口を言っている相手の好物をちゃんと忘れない。
 こういうのは人あしらいが上手なところだ。
 家人は人を批判する時にもはっきりと本人に言う。
 これはダンナも同じだ。
 当家に「陰口」は存在しない。何故ならその相手に直接言うからだ。
 だから、夫婦喧嘩はもの凄い。DVだってキツい。ちなみに、ダンナは一方的にやられる方。
 だが、どんなに喧嘩をしている最中でも、無意識に「これは旦那の好物だったから」とつまみを買って帰る。
 普通は「今まさに憎んでいる状態」でそんなことはしないもんだ。
 で、「俺は自分からコイツと離婚することはない」と思う。
 どんなに当方が「飲む・打つ・買う」のダンナでも(w)。
 もっとも、もはや「打つを少々」くらいしか出来なくなった。
 
 脱線した。
 カレー(幼稚園児サイズ)には、もやしのお浸しがひと口分ついているが、これがあると無いとでは全然違う。
 パスタのサラダは余計で、コイツのおかげで炭水化物の比率が高くなっている。