日刊早坂ノボル新聞

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◎『死の国』ノート その3 ひと雫の生

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◎『死の国』ノート その3 ひと雫の生

■ひとは「生まれ替わる」のか 
(問い)「生者の魂は霊界に行くと、個我(自我)の殻が壊れ、拡散して集合となる。このため、霊魂は不生不滅で、ただかたちが変わるだけだと前回伺いました。そのことを示す具体的な証拠は見られるのでしょうか。もちろん、修行を積まぬごく普通の一般人であっても、という意味です」
(神谷)「貴方にとって、この世に生れ落ちてからの最初の記憶は何ですか?」
(問い)「おそらく一歳になる前のことだと思いますが、布団に仰向けになり、上を見ていたことを覚えています。明かりが見えたのですが、今思えば裸電球ですね」
(神谷)「それは記憶力がかなり良いほうですね。普通は2、3歳以降の記憶しかない。忘れてしまっているのです。では、生まれる前の記憶はありますか?」
(問い)「私にはどういうものが生まれる前の記憶なのかが区別出来ませんが、繰り返し何百回も夢に観る出来事はあります。私は一揆を起こした主要人物の一人で、仲間と一緒に進軍する夢です。ただの夢と言えばそれまでですが、同じ夢を何百回も観て来ました。また、調べてみると、夢の中の私に該当する人物が実際にいたようなのです」
(神谷)「世界には、前世の記憶を持っているひとが沢山います。その多くは子どもたちで、実際に行ったことのない場所やそこで暮らしている人々について正確に言及したりします。5歳6歳の子が地球の裏側の場所のことを知る由もなく、想像でも語れない。そこで、ひとには前世があり、生まれ替わっていると考えるひとも多い。いわゆる輪廻です」
(問い)「その件については、時々、テレビ番組などで実証が試みられています。しかし、断片的には正確な事実を言い当てていたりするのですが、必ずしも総てが正確だというわけではないようです。まるで複数の前世の記憶が入り混じっているかのようなケースがあります」

(神谷)「冒頭で生れ落ちての最初の記憶をお訊ねしたのですが、実はひとの脳には誕生から現在までの記憶が総て格納されているのです。ひとの脳はホストコンピュータよりも情報を多く収めることが出来ます。ただ、脳の稼動部分はごくわずかなので、そのままでは処理しきれない。そこで脳に幾つもの小部屋を作り、その中に仕舞うことで記憶を見え難くする。そのことを我々は『忘れる』と言います。しかし、無くなったわけではなく、喜怒哀楽の感情や自身のふるまいなど、総ての経験を逐一憶えているのです」
(問い)「すると、ひとが死に彼岸に渡った時も、その記憶は保たれる?」
(神谷)「霊界に入ると、個としての存在ではなくなりますが、総ての経験や喜怒哀楽の感情は、要素に分解され、霊界の海で共有されます。ひと滴の雨が海に落ちれば、たちまち拡散し、海水に混じる。それと同じです」
(問い)「なるほど。それで分かりました。雨のひと雫、すなわち一個の魂は、霊界から分かれてこの世に生まれ落ちる。そのことは、海から水を汲み上げるのと同じ意味なので、海に含まれるエッセンスを幾つか持って行く。だから、ひとによっては前世の『入り混じった』記憶を持っているということですね」
(神谷)「そうです。何千万、何億の魂のエッセンスの幾らかがひとつの魂の基になるのです。一個の魂が次々、別の新しい人生に生まれ替わるのわけではない。羽柴秀吉を前世に持つひとは実際にいるかもしれませんが、同じように秀吉を前世に持つ者は何千何万人といるかもしれない。しかし、持って生まれ出たのはエッセンスであって、秀吉の人格がそのまま生まれ替わることはないのです。そういう意味で、同じ魂が何度も生まれ替わるという意味での『輪廻』は存在しません。ただし、かつて存在した、ある特定のひとの記憶や感情を部分的に共有する場合はあります。海にも部分的に濃淡がありますし、場所によって成分に偏りもあります。さて、本来、個我(自我)は死と共に失われるべきもので、それを死後も保っている存在は幽霊もしくは悪霊と呼ばれるものです」

■幽界の霊
(問い)「ようやく我々にも馴染みの深いものが出ました。霊について、一般人が最も分かりやすいのは幽霊です。多くのひとは、死ぬと霊になりあの世に行くが、時々、この世に留まる者がいる。それを霊または幽霊と呼びます」
(神谷)「その考えは、ある意味では正しく、また他方では決定的に誤っています。ひと雫の魂が地表に落ちるまでを人生と呼びますが、地表に落ちても、それで直ちに霊界に合流できるわけではありません。雨と同じように、魂にも川となり、海に向かうステップがあるのです。仏教では、ひとが死にその魂が彼岸に渡るまで凡そ四十九日掛かると言われているようです。実はそれは、霊界に帰還・合流できる魂について言えることで、他方ではそれを望まぬ者もいます。地表に落ちてもなお、雨粒のままで居ようとする者がいるのです」
(問い)「それが幽霊ですか」
(神谷)「そうです。『霊』は本来、個我(自我)の呪縛から介抱された魂のことです。しかし、肉体を失っても、生前の個我にこだわり、霊界への合流を拒む魂がいます。自我を保ったままの魂のことですが、それが幽界の霊、すなわち幽霊となります」
(問い)「幽霊には、恨みつらみや怨念がつきものです。そのことで、生前の自我が魂を解放させてくれないわけですね」
(神谷)「もし生前の人格をそのまま供えているとしたら、それは幽霊であり、悪意にとらわれた魂です。その意味で、無難に霊界に渡り、その一部になった魂は、この世の雨のひと雫に関わったりなどしません。雨がどのように落ちようと、最終的に海に戻って来れば、そこで総ての喜怒哀楽を共有し癒すことが出来るからです。亡くなった親族が姿を現すのは、死後間もなく、まだ彼岸に渡っていない段階にあるか、あるいは故人を思い出す側の想像や妄想によります。亡くなったお祖父さんは、もし霊界に渡っているなら、子や孫の前に姿を現すことはないのです」