日刊早坂ノボル新聞

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◎『死の国』ノート その2 魂の循環

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◎『死の国』ノート その2 魂の循環
 夢の中に神谷龍鳳氏が現われ、言葉を交わした。
 これから順次、神谷龍鳳氏との問答を記してゆく。

■死後の魂、あるいは魂の循環について
 (問い)「貴方が霊界の住人であるというなら、説明が出来るはずです。貴方が現われたということは、死後の魂は存在するということですね」
 (神谷)「ひとの生と死は、変化の中のひとつの局面に過ぎない。それは科学でも証明出来る。科学的思考をひと言で表せば、『森羅万象には、必ず規則がある』という考え方だ。これは『原因があり、結果が生じる』というようにも言い換えられる。無から有は永遠に生じないのだから、ひとが誕生するにはそれより前に何かしら存在がなくてはならない」
 ここで神谷氏はひとつの例えを持ち出した。
 (神谷)「水を思い浮かべてみたまえ。水が最も多く集まっているのは海だ。その海や地表から、水はかたちを変え水蒸気となって空に上っていく。空で凝結した水は雲となり、その雲が芯を得て雨になる。雨は地表に降り注いで、水溜りになり川になる。そうして元の海に戻っていくのだ。かたちは違えど、これら総ては同じものだ。総てが同じ水なのだ」
 (問い)「ではひとの生死、もしくは魂もそれと同じだというのですか」
 (神谷)「そうだ。かたちはまったく違うが、同じ魂であり霊だ。個としての意識も持つものが魂で、それを持たぬものが本来の霊だ」
 (問い)「その場合、海が一般に霊界と呼ばれるものですね」
 (神谷)「そうだ。そこでは自我・個我はない。ひとり一人は海を構成する要素であると共に、海そのものなのだ。各々の持つあらゆるものが含まれるが、しかし個我そのものでは無い。霊界に個人格は存在しない。ひとが生前に持っていた総てがそこに存在するし、あるいは存在しないとも言える。仏教では『かたちあるものは総て空しい』と説くが、生滅を言っているのではなく、存在の仕方を言っている。繰り返すが、霊界では各々の魂の総てがあるが、他と隔てられては居ない。見方を替え、生前の存在から眺めると、もはやその人は存在しないのだ」
 (問い)「では、生者が占める位置はどうなるのでしょう」
 (神谷)「水のように霊界(海)から霊素(水蒸気)が別れ、雲となる。この段階では掴みどころがなく、かたちがほとんど無い。それが芯を得た時、ひとりの肉体を持つ魂が生まれる。すなわち、雨がこの世の人間だ。結露して地表に落ちるまでの間が雨粒にとっての人生なのだ」
 (問い)「雨のひと粒ひと粒が自我を持つ魂で、それがすなわち一個の人間となるわけですね」
 (神谷)「雨粒は独立しており、大局的に周囲を眺望することが出来ない。見えるのはごく近くの雨粒だけだ。そこで地表に落ち粒が壊れてしまえば雨粒は壊れる。このため雨粒自身は終わりだと考える。しかし、かたちが変わり自我は失われるが、存在自体は無くならない。水と同じなのだ。どんなにかたちが変わっても、水は水だ。水をそのように認識出来るのに、魂のかたちが変わることを認めないのは愚かな話だろう」

神谷氏の話を総合すると、「死んで存在が消滅することはない」という話なのだが、それは同時に自我(個我)が無くなってしまうということでもある。雨粒の視点に立てば、下に落ちた瞬間にそれまでの存在は失われてしまうということだ。
 すなわち、死ぬことは終わりを意味するものではないが、もはや生前とは別の存在となる。
 これを見る位置を替え、生前の存在から眺めると、死ぬことによって自我(個我)は消滅する。
 この2つの見方は、背反するようだが、しかし、同じことだ。