日刊早坂ノボル新聞

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『死の国』ノート 7)神仏は存在するのか

『死の国』ノート 7)神仏は存在するのか
                         話し手 神谷龍慶
                         聞き手 早坂ノボル
■神仏は存在するか
(早坂)「私たち夫婦は、不動明王を一家の守り神としています。これは私が病気で苦しんでいる時に、こんな夢を観たからです。妻と二人で道の上に立っていると、遠くから群集が近付いて来る。二百辰らいに寄せた人々を見ると、いずれも亡者でほとんど鬼のような姿をしています。そこで、妻と手を取り合って逃げるのですが、群衆の方が早く、次第に間を詰められてしまいます。困り果てた時に、ふと目の前の山の上を見ると、大きな仏さまが座っていました。仏さまの表情は極めて険しく、背後には火炎が吹き上げています。ところが、その姿を見た瞬間に、私は『良かった。これで救われる』と思ったのです」
(神谷)「非常に良い夢を観ましたね。それまでもお不動さまにはお参りしていたのですか」
(早坂)「いえ。私は基本的に無宗教であり、神仏どれかに限定することなくあちこちに出入りします。その時は、それが不動明王であることも知りませんでした。夢から覚め、あの仏さまの姿に近いものを探したら、不動明王だったのです」
(神谷)「結論から申しますと、人の姿をした仏さまは存在しません。霊界(海)には人格が無いのです。あるのは心でありメッセージです。不動明王は『衆生を悉く救おう』という強い意志を表したものです。雨粒がどのように落ちようとも、海は必ず迎え入れてくれます。だから安心せよと伝えているのです」
(早坂)「すると、あの姿は・・・」
(神谷)「性質や心をうまく人に伝えるのは難しいものです。そこで、人の姿をとって心を代弁しているのです」

(早坂)「あらゆる意味で、人格は無い、というわけですね。するとキリスト教の神や、イスラム教の神も、人の姿をしているわけではないのですね」
(神谷)「その通りです。世界には人格を持つ神々への信仰が沢山ありますが、これらは総て象徴で実体はありません。電波のように眼には見えないものなのです」
(早坂)「では、神や仏は存在していると言えるのでしょうか」
(神谷)「目に見えませんが、存在はしています。数字のゼロと同じで、それ自体は何物も生み出さず、他を変化させることはありませんが、その存在を打ち消すことも出来ないのです。霊魂が循環しているのであれば、我々生身の人間が存在していること自体が、霊界が存在していることの証拠となります」
(早坂)「分かりました。神や仏は霊界そのもの、すなわち霊たちの海にある性質を指しているわけです。これは、肉体を持ち、そこで自我を覚える者には極めて認識し難い事態です」
(神谷)「そのために宗教が存在するわけなのです。人は生と死の実相を理解するために、考える道筋を色んなかたちで定めた。これが宗教です。ところが、宗教は政治と同じで善悪について語ります。そうなると、善を語る者は、すなわち『善人』となり、その中から『聖者』が生まれます。その一方で、自分と同じ善を信じない者たちについては、これを『悪人』と見なすようになるのです」
(早坂)「皮肉なものですね。目的地は同じところに向かっているのに、同じ道順を辿っていないというだけで、他人を排斥するようになるわけですか」
(神谷)「車で行こうが、バスで行こうが、あるいは自転車や徒歩で行こうが、目的地が一緒であれば、互いに邪魔をしないように先に進めば宜しい。ところが、この世に住む者たちは、自分は自転車なのにバイクに乗っている者たちを腹立たしく思い、排斥しています。殺し合いに発展することもあります。と言うより、往々にしてそうなります。政治の世界では意見を異にする人を罵り、排斥しますが、それと同じことが信仰の世界でも起きるわけです」
(早坂)「信仰や宗教の違いもって他者を攻撃することほど愚かしいものはないわけですね。善を信じるがあまり、それからは逆にどんどん遠ざかって行くわけです」
(神谷)「それはまさしく早坂さんのおっしゃる通りです。数字のゼロを思い起こしてみましょう。ゼロはどこから書き始めても同じ位置に戻ります。霊魂も同じで、ひとの魂は死ぬと霊界の一部となり、また分離して一人のひとに生まれます。雨はいずれ落ちて流れて海に至る。海から水蒸気が立ち上り、これが雲となり雨を降らす。この循環は永遠に続くのです」