日刊早坂ノボル新聞

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◎再び「霊魂の循環」を解釈する

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◎再び「霊魂の循環」を解釈する   (語り手:神谷龍慶、聞き手:早坂ノボル)

「霊魂の循環」について

(早坂)「さて、神谷さん。これまでの死生観の多くは、生と死を二分法で捉えて来ました。生と死を二つの世界に分ける考え方です。どの信仰・宗教でも、現世とあの世を隔て、さらにその多くは、あの世を天国・極楽と地獄に二分する見方をしています。しかし、これでは、我々、生者の近くにいる幽霊の存在をうまく説明できないのですが、どうでしょう」
(神谷)「死んだ後も、どうやら人格が残存しているらしい。これに気付いたため、ひとは善霊と悪霊を考え出しました。その最たるものは神と悪魔です。ひとが実際に目にする霊、これを我々は幽界の霊、すなわち幽霊と呼んでいますけれども、これは多くおどろおどろしいものです。写真の中に、そこにはいないはずの人影が写ることがあるのですが、身の毛のよだつような姿をしているものも少なくない。そういうのを説明するために、死後も魂は存続し、善と悪、それぞれのメンバ-が居て、現世と同じような社会を形成している。そういう見方を考え出したのです」
(早坂)「これまでの神谷さんのご説明によると、生死は肉体の有無と同じ意味ですから、それに加えて『自我』というものさしを加えると、簡単に説明できるということですが」
(神谷)「ひとは肉体を持って生まれて来るわけですが、その肉体の持つ欲求と充足、喜怒哀楽の経験を通じて、自我が形成されます。では自我が形成される前はどのような状態なのでしょう。これを解く鍵は前世の記憶です」
(早坂)「前にも伺いましたが、3歳から5歳くらいの子どもが、別の人生での出来事を語るケースですね」
(神谷)「世界中に類例がありますが、昔自分はどこに居て、何をやっていたかを子どもが語ることがあります。そして、それを実際に確かめてみると、まさしく該当するような人物がいます。一度も訪れたことがない地のことを詳細に語りもします」
(早坂)「しかし、多くは断片的なもので、かつ複数の人のものが入り混じっている可能性が高い」
(神谷)「そして、その子どもが成長して自我を確かなものにすると、そういう前世の記憶は消えてしまいます。これをうまく説明するのは、ひとり分の魂が別のひとりに生まれ替わるのではないということです。もっと細かく分断されており、継承されるのは人生経験や喜怒哀楽の断片的な記憶だということです」
(早坂)「霊魂が循環する過程で、自我が崩れ、個々の霊素に分かれてしまうからですね」
(神谷)「ひとの魂がそれを受け入れることを『魂の寛解』と呼びました。また、肉体が滅んだ後、執着心を捨てることが出来ず幽霊になった場合でも、自然に自我は崩れて生きます。こちらは消散と呼びます。どちらも自我が消失するという意味では同じですが、消散した場合はうまく霊界に戻ることが出来ず、現世や幽界に散らばってしまいます」
(早坂)「しかし、自我はひとの存在そのもので、拠り所です。それを失うことは、まさに消滅することと同じなのではありませんか。死ねば終わり。それと大差ありません」
(神谷)「ある意味ではその通りです。霊界には『誰が』『誰の』という主格にあたる存在がありません。母を恋しく思う気持ちは、多くの人が共有するものですが、霊界にはそういう心の共通要素はありますが、『誰の』という部分がありません」
(早坂)「神谷さんが『霊界には神も善霊もいない』と言われるのは、すなわち、ひとつ一つが独立した霊格を持つ存在が無いということなのですね」
(神谷)「そうです。霊界では自他の区別が無いのです。よって、霊界に社会はありません。全体がひとつとも言えますし、ばらばらな要素しかないとも言えます。仏教では『色即是空、空即是色』と言いますが、多くの人が『かたちあるものは空しい』と解釈します。でもそれはまったくの誤りで、『霊魂の循環には、自我の生成・消滅を伴う』ということを言っているのです。『空』は数字のゼロと同じで、数えられないし、他のものに影響を与えることは無いのですが、存在しています。霊のことを『れい』と呼ぶのは、この『零』に極めてよく似ているからです。たまたま似ているのではなく、古のひとたちがそれを承知していたので、そう呼ぶようになったわけです」

幽霊は怖いものではない

(早坂)「死後も自我を保った状態の霊が幽界の霊、すなわち幽霊ということになるのですが、一般の人が考える霊は、この幽霊のことです。これまでの繰り返しになるかもしれませんが、幽霊とはどういう存在なのでしょうか」
(神谷)「肉体が滅びると、欲望や感情によって形成されてきた自我の紐帯がほころび始めます。自身の意思で自我を解き放つことを『魂の寛解』と呼びますが、これはいわゆる『成仏』と変わりありません。肉体と自我が無くなれば、通常、ひとの魂は欲望から解放されます。しかし、そのことを拒む者もいます。何らかの強固な執着心を持つことで、肉体に替わる自我の拠り所が生まれます。これが幽霊ですが、幽霊が自我を保つためには、欲望や執着心を保つことが必要になるのです。生きている人を見れば分かりますが、何かに囚われ、執着する者は傍から見ていて気持ちのよいものではありません。それと同様に、幽霊は存在そのものが薄気味の悪いものとなるのです」
(早坂)「執着心で成り立っているのなら、気持ちが悪いのは当たり前ですね」
(神谷)「それでも、その気味悪さの原因が欲望や執着心から来ているということが分かれば、怖ろしさは小さくなります。精神に異常をきたしたひとと同じで、そういうひとが暴れているのなら、無闇に近付かなければよいのです。距離を置くだけでも悪影響を受けることがなくなりますし、相手が静まったところで説得することも出来ます」
(早坂)「世間では、霊的現象を怪談の延長と捉えて面白がるひともいます」
(神谷)「相手がどのような存在かを知らないと、往々にしてそういうことになります。でも、知ってしまえば、けして特別なものではないと分かります。心の状態は、魂の状態にもっとも近いものですから、極端に幽霊を恐れたり、面白がったり、侮蔑したりすると、逆に接点が生まれてしまいます。それでは自分のほうから近寄って、抱きつくのと変わりない。不用意に接近すれば、悪影響が生じることがあるのですが、それは近付く側の問題で、幽霊が自ら引き起こすものではないのです」      (続く)