日刊早坂ノボル新聞

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『死の国』ノート 9)霊素・霊気とオーブ

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『死の国』ノート 9)霊素・霊気とオーブ
話し手:神谷龍慶、聞き手:早坂ノボル

■オーブ:煙玉とは
(早坂)「私は煙玉について研究しています。この煙玉とは、一部ではオーブと呼ばれるものに近いのですが、明らかに自然現象と目されるものがあり、またそうでないものもあるようです。そこで、様々な類似画像を集め、どういう時に写るのかを研究しているわけです」
(神谷)「ほう。何か面白い知見は得られましたか」
(早坂)「まず、肉眼では確認しづらいが、写真を撮影すると丸い玉が写る。このこと全体について、煙玉類似現象を呼ぶことにします。そのうち、明らかに自然現象と思われるものは、日輪、すなわちガラスに太陽光が反射した時のプリズム効果によって生じるものや、ゴミや埃にフラッシュ光が反射するもの、空気中の水蒸気や水滴に反射するものなどがあげられます。これらは単なる自然現象です」
(神谷)「そうなると、それ以外に自然現象ではないものもあるのですね」
(早坂)「今述べたケースを元に『オーブは総て自然現象』と断定する人がいますが、一を見て十を語ることは、それこそ科学的な説明とは言えません。日陰で、かつフラッシュ無しで撮影し、埃や水蒸気とは考え難い玉が写ることがあります。私はそれらを幾つかに分類していますが、そのひとつが光玉です。つい最近、岩手の御堂観音を訪れた時には、日の光が差していないところで、ファインダーに日輪が入りました。最初は単なるプリズム効果だと思ったのですが、カメラを下に向けても、その光の玉が映ったままでした。その時の画像を確かめると、その玉には背後に張ってある幕の模様が写っています。すなわち、太陽光が反射したものではなく、実体があるものだったということです。それ自体がプリズムなのですから」
(神谷)「なるほど。肉眼では見えないが、しかし、そこには存在していたということですね」
(早坂)「この他では、主に室内で写るのですが、煙で出来たような玉が出ることがあります。玉の内部は煙が渦巻いており、時々、内部に人の顔が出ていることもあります」
(神谷)「確かに、そこにはいない人の顔が出るということであれば、説明のつかない現象と言えますね」

■煙玉は何故出来る
(早坂)「そういう煙玉が出るのは、主に室内で、かつある程度湿度のある環境でのことが多いです。じめじめした地下室、人の沢山いる部屋では、時々写ります。自然現象に近い時もありますが、どうやっても説明のつかないことも多々あります」
(神谷)「早坂さんの言われる煙玉のうち、霊的な現象については、私の方から言えることが幾つかあります。前回、霊素もしくは霊気は、常に地上に降り注いでいるとお話しましたが、これは水蒸気によく似ています。水蒸気は上空で結露して雲になりますが、その雲と同じように、霊素・霊気が結びつくと、霧粒のようなものになります。同時に沢山出来れば霧になるわけですが、実際に、肉眼ではまったく見えないのに、写真には白い霧が写ることがあります」
(早坂)「私もそれは何度か経験しています。現実には無いのに写真にだけは写る霧です。これは心霊現象が起きる時に現われやすいので、私は『幽界の霧』と呼んでいます」
(神谷)「霊素・霊気は、それ自体は目に見えないのですが、集まって霧のかたちを取ることもあれば、煙の玉状にまとまることもあるのです」
(早坂)「世間には、その煙玉のことを霊的現象そのものと見なす人がいますが・・・。要するにひとつ一つが霊だと言うのです」
(神谷)「ここではっきりと申し上げておきますが、そのような考えは誤りです。煙玉や幽界の霧、ああ、後者の名称がありませんので早坂さんの呼び方を使わせて貰いますが、その幽界の霧もそれ自体が霊や魂と言えるわけではありません。霊的な要素ですが、人の魂に近いものではありません。例えば、人の体はたんぱく質で出来ていますが、たんぱく質があるからと言って、そこに人がいるわけではありません。あくまでたんぱく質たんぱく質であって、人ではありません。それと同じです」
(早坂)「ちょっと難しいですね。整理すると、この世には霊素・霊気が降り注いでいて、それが変化したかたちが、幽界の霧や煙玉です。霊界に関連した要素ですが、しかし霊そのものではない、と言うことになりますか」
(神谷)「霊魂の循環における過程のひとつなので、霊魂そのものではありませんが、霊魂をかたちづくる要素ですので、様々な効果をもたらします。先ほど早坂さんが、煙玉の中に人の顔が写るとおっしゃられましたが、周囲の幽霊が持つ念を映し出したりします。その玉を通じて、幽霊たちは現世を除き見たりもしますので、あちら側の住人にとっては、窓の役割をも果たすのです」

■煙玉を恐れる必要は無い
(神谷)「この世の霊能者と呼ばれる者の中には、煙玉をことさら特別な霊的弊害のように扱おうとする者がいますが、総て営業的な意図によります。煙玉には霊的な要素はありますが、現世の者に対し何ら影響をもたらすことはありません。風通しを良くし、室内を乾燥させると、程なく消えて行きます」
(早坂)「確かに、湿度や光の角度によって、写ったり写らなかったりしますね」
(神谷)「怖れるべきは煙玉ではなく、それが反射している悪意の方です。たまに、シャボン玉のようなかたちをした玉が突然、大量に噴出したりすることがありますが、そういう時は十分に気を付けて下さい。何らかの意図が働いている場合があります。そういう時には拍手を打ったり、鐘や錫を鳴らし、『遠ざかれ』と強く命じた方がよいかもしれません。しかし、それもあくまで念のためという意味合いです」
(早坂)「何だか拍子抜けがしますね。煙玉、すなわちオーブ現象は単なる魂の過程のひとつで、自然現象に近いものですか。『取り扱い注意』程度の留意は必要だということですけれども」
(神谷)「ほとんど自然現象に近いものです。それ自体に人格があるわけではありません。ただし、『今この世と幽界がごく近くにある』というシグナルでもありますので、繋がりが生じやすい状況だと解釈した方がよろしいです」

■幽霊による憑依
(早坂)「なるほど。御堂観音ではその後の写真にひとの姿が写りました。強く念を感じるものは、すぐさま画像を廃棄しましたが、それで宜しかったでしょうか」
(神谷)「それで結構です。すぐさま繋がりを断てば問題ありません。幽霊は自他の区別がつきませんので、自身に同調する心の中に入り込み、それと同化してしまいます。そのまま放置すると、ひとの心の中に自分由来のものではない怒りや悲しみ、恨みの念が沸き上がって来る筈です」
(早坂)「世間一般で言う『憑依』というものですか」
(神谷)「これも少し違います。ひとは自分になぞらえるやり方でしか霊魂を自覚出来ないので、幽霊が生身の人間と同じようなものだと考えます。それはすなわち、自我を持ち、思考する存在です。しかし、幽霊には自己の意識はありますが、それを他と区別することが出来ないですし、もはや頭は存在しませんので論理的にものを考えることが出来ません。取り憑いてやろうと思って肩に乗るのではなく、自分とそのひとの区別がつかない、あるいはそのひとは自分自身だと思っているのです。ひとの心や魂は音叉と同じなので、同調すれば同じように鳴り出します。いざ鳴り出したら、どちらが鳴っているのかは区別出来なくなるのです」
(早坂)「では、幽霊が憑依する相手に対し『呪い殺してやる』と考えているわけではない」
(神谷)「誰かを呪いたい気持ちを抱えているかもしれませんが、その相手が誰かということも幽霊には分かりません。そういう心情があるだけです」
(早坂)「繰り返しになるかもしれませんが、一般には、幽霊のことを霊本来の姿として認識し、死後もその人格が残り続けると考えることが多いようです。このため、あの世は霊体の集まりであるとみなす人が少なくありません。しかし、人格が残るのはあくまで幽界までだということですね」
(神谷)「彼岸、すなわち霊界に社会はありません。人格を伴う善霊、悪霊も無いのです。それがあるのは幽界であり、この世に近い領域だけです。そしてその幽界に善霊はいません。これから霊界に向かう中途にある幽霊か、そこに渡りたくない幽霊のいずれかなのです」
(早坂)「死んだお祖父さんが助けに来てくれたり、守護霊が教え諭してくれることはないわけですね」
(神谷)「それはただの物語で、ひとを引き付けるための嘘、または方便です。霊界にあるのは性質だけですので、現世の者に対しては説明するのが難しい。そこで分かりやすくするために、事実ではないことを語っています。それを嘘と捉えるか、方便と捉えるかは考え方によります」
(早坂)「では守護霊と話をすることは出来ないのですね。霊界には人格を持つ霊、すなわち個霊は存在しないわけですし、存在しない相手と話すことは出来ませんから」
(神谷)「事実関係としてはその通りです。しかし、そこはもはや人間(じんかん)の問題です。他者を傷つけたり、ないがしろにすることが無ければ、好きなことを好きなように信じるが宜しい。自転車に乗ろうが徒歩だろうが、目的の地に到達することが出来ればよいのです。私の方からは何もコメントすることはありません。私は私のメッセージを伝えるだけです」