





◎「この世」と「あの世」の接点 「煙玉と霧」
長らく「この世」と「あの世」の関りを調べているが、時々、それまでの情報を整理し、さらなる前進に役立てるものとした。
とりわけ、「煙玉」等、私が定義した考え方が多々あるため、一般には馴染みがなく、説明が必要だと思う。
ただし、今は解説に長時間を費やす暇はないので、端的な考え方を記すに留める。
◆「煙玉」と「霧(幽界の霧)」◆
何年か前の話だが、たまたまテレビを眺めていたら、「心霊番組」をやっていた。
普段は観ることはなく、あくまでたまたま目にしたのだ。
その番組では、欧州のどこかの「霊能者」が出て、廃墟を訪れていた。
その霊能者(女性)は、「ここに沢山の霊が居ます。迷える魂が集まって来るのです」とかナントカ話していた。撮影スタッフがフラッシュを焚いて撮影すると、画面には「白い玉」が沢山写った。
「ほら、こんなにたくさんの霊がいるのです」(満足げ)
その話を聞いていて、私はそれこそ腹を抱えて笑った。
その場所は廃墟の地下室だ。床には水が溜まっていた。
要するに、湿気がかなり多いところでフラッシュを焚いて撮影したということだ。
そういう場合、湿度と光の関係で光がミストに反射することがある。いつも写るわけではないから、微妙な関係性があるのだろうが、その多くは自然現象だ。
自称「霊能者」はよく「オーブ」という言葉を使い、霊的な意味があるかのような話をするが、大半は自然現象に過ぎない。実際、およそ霊とは無縁の場所でも写る。
森の中や湖の近く、山の上など、やはり「水と光」が関わる場所になる。
では、「オーブ」現象は総てが自然現象かと言うと、必ずしもそうは言い切れない。
どうにも説明の出来ないものが混じっている。
説明出来ぬのであれば、「自然現象」と断定することも出来ない。
線引きが難しいものがあるなら、あえて分けない方が適切だ。
そこで、自然現象やよく分からない現象を含めた「白い玉」全般を「煙玉」と呼ぶことにした。「白い煙状の玉」であれば、形状が合致していれば問題はない。
そもそも、「オーブ」もただの「球」を示す言葉だった。
こうしてあれこれと収集・観察して来たが、やはり大半は自然現象だ。
光と湿気の関係によって生じる。
ただ、数パーセント程度の割合で、上手く説明出来ないものが混じっている。
そして、そういう画像には、多く「別のもの」も写っている。
この場合の「別のもの」とは、「人の顔」、「眼(視線)」、「人影」等になる。
これらの要素のうちの「いずれか複数」が「同時に現れる」ケースについては、「霊的現象」と見なしてよいのではないかと考えられる。
「霧」も「煙玉」と似たような性質のもので、湿気と光によって見えたり見えなかったりする。これも大半が自然現象だろうが、快晴の日に画像にだけ残ったりするから、理解に苦しむ。「説明が出来ない」ケースも幾らかある。
このため、説明不能の「霧」のうち、あの世との関りがありそうなものを「幽界の霧」と呼ぶことにした。そこにいない筈の人の姿が画像に残るケースでは、多くこの霧が写る。
(霧がかたちを変えて、人の姿になるのではないかと思う。)
ただ、煙玉や霧は、その存在自体を「霊的現象」と言えるかどうかは疑問だ。
それが出たからと言って、何が起きるわけでもない。
何ら影響が生じないのであれば、「まったく気にする必要はない」ということだ。
「説明のつかない煙玉および霧」のうち、幾つかは「霊的現象」に関わっているものもあるだろうが、基本的に「付帯的状況」と見なすのが正しい。
もし、そういうものを身の回りで発見しても、そのこと自体を怖れる必要はない。
煙玉や霧ではなく、その他に何かしらのメッセージが含まれていないかどうかの方に着目する必要がある。
ちなみに、画像は総て私自身が撮影するか、私が被写体になったものだ。
「他の誰か」が撮影した画像に「あれこれと想像や妄想で説明を付ける」のは誰でも出来るし、その場の状況が分からぬのでは追検証も出来ぬから、「自身で撮影すること」が基本的なスタンスになる。
仮に「霊能力」なるものが存在し、それを駆使できる「能力者(霊能者)」が実在するなら、それこそ「撮る写真撮る写真が心霊写真になってしまう」と思う。
「能力」など何ひとつ持たぬ私でもこの始末だ。
(そもそも「霊能力」も「霊能者」も存在しない。総て空想と願望の産物だ。ただ、「念」は修行によって培うことが出来るから、「念」を駆使する「祈祷師」は実在する。)
なお、もし煙玉や霧が何らかの悪影響を及ぼすものであれば、私はとっくの昔にどうにかなっている。私はこの手の画像を毎年、相当数撮影しており、「五百枚を超えたところで多くを捨てる」ようにしている。
追って「人影」についても言及するが、ここで気を払うべきは、現象そのものではなく、「接点が生じる理由」の方にある。
そのことが生じる要因を考究するためには、まずは「どれが確からしく、どれが疑わしいのか」を確かめることが前提となる。