日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎御堂観音への参詣方法

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◎御堂観音への参詣方法
 岩手町の御堂観音は正確には、天台宗のお寺なそうだ。
 ところが、本堂に当たる建物には注連縄がかかっている。恐らく、廃仏毀釈の時に摘発を免れるために神式のスタイルを取り入れたのだろう。
 観音さまの場合、お寺のこともあれば、神社のこともあるが、さすがにどうしてよいか困る。
 お焼香場もあるから、まずお焼香をして、本堂(神殿)の前に進むが、注連縄の前だと自然に拍手を打つ。

 既に幾度も書いたから簡潔に書く。
 私がここを訪れたのは2年前の夏だ。
 国道4号を南下していたら、持病の筋膜腫が痛み出し、どうにも堪らない。
 「どこかで休んでいくか」と思い立つと、すぐに「御堂観音」の道案内表示が見えた。
 すると、頭の中で「ここにお参りをすると、お腹の痛みが治るよ」という声が響いたのだ。
 そこで、国道を外れ、お参りしていくことにした。
 駄目元だし、いずれにせよ休憩が必要だ。

 国道を下りると、観音様までは3分ほどで着く。
 駐車場に車を入れ、40辰曚瀕イ譴浸殻腓妨?った。
 階段を上りながら、記念写真を撮ろうとしたのだが、ファインダーに丸い玉が見えた( 法
 太陽にカメラを向けた時に見える日輪と似たようなかたちだ。
 ところが、このお寺の周囲にはうっそうと樹が茂っているから、ほとんど日陰になっている。
 日陰で、日光がレンズに反射するのはおかしいから、カメラを下げると、それでも丸い玉が見えていた。
 「こりゃ煙玉だな」
 どういう理由かははっきり分からないが、画像に「白い玉」がしばしば写る。
 「オーブ」という表現もあるが、こちらは霊的現象としてのみの扱いだから、私は「煙玉」と呼んでいる。大半が自然現象や人工環境によって生じる現象だから、これを含むと誤謬が生じない。

 あとで分かったが、純然たる煙玉で、この場所に由来するのではなく、私を起源とする煙玉だった。
 時々、私が煙玉を周囲に出しているようで、何十枚も画像に残っている。

 境内に入り、ご本尊様に手を合わせ、また撮影すると、快晴の日なのに霧が写った(◆法
 境内全体が霧に覆われている。
 境内でゴミを燃やせば、似たような絵面になると思うが、もちろん、そんなことは有り得ない。
 神(仏)域で、ゴミを燃やす者はいないし、霧が見えたのはこの1枚だけだった。

 その後、ゆはずの泉で水を飲み、戻ったところで、慰霊塔を撮影した。
 すると、慰霊塔の右側の繁みの中に、女の顔が写っていた。
 まっすぐこちらを見ているが、どうやら私を見ているのではなく、煙玉を見ているのだ。
 この年は、行く先々で同じような出来事が有り、人影や眼が写真に写っている。

 その後、幾度か、ゆはずの泉で水を汲むために、この地を訪れているが、ほぼ毎回、説明し難い現象が起きている。
 白い煙が写ったり、人影が写ったりと様々だ。
 もちろん、はっきりしないことも多く、イ筬Δ△燭蠅蓮概ね「気のせい」の範囲だろう。
 その場にいた者としては、画像だけではなく、「ザワザワ感」があるから、それなりの意見があるが、それはあくまで主観の範囲だ。物理的に説明のつくものは、そちらの説明を優先すべきだろうと思う。

 「あの世」の観察に取り組むのは、好奇心によるものではなく、ネットに出して受けようみたいな意図によるものでもない。私自身の「死」がさほど遠くない将来に来ることを知っているから、「死後、自分はどうすればよいか」を知りたいがためだ。
 面白おかしく語り、受けを取り、あるいはそれで金を儲けようと思うなら、直ちに「私は霊能者です」みたいなことを自称する。
 今では、ソコソコ出して見せられるようになっているから、「ほれ。これが霊です」と出して見せればいい。あとは相手の境遇に合わせて、調子の良いことを言うだけ。
 しかし、現界(世)を生きる者には、「霊能力」など存在しない。音叉が震えるのと同じ理屈で震えているだけだし、共鳴して音を出すのでなく、「自ら震えている」、「共鳴していると信じている」だけのことが大半だ。
 「亡くなったお祖父さんが見守ってくれる」ことも、「守護霊と話をする」ことも有り得ない。
 ひとの姿をした霊は、総てが「幽界の霊(幽霊)」で、これは執着心の産物だ。自我に囚われた者は、己と関係の無い別の者に手を差し伸べたりはしない。

 「第六感」や「霊感」は極めて不確かであやふやなものだ。
 だが、現界(世)のルールとは少し外れた決まりに従って動いている。

 「あの世」が何かを知りたい者は、こういう地に足を運んでみるべきだと思う。
 ただし、異変を覚えるのは、百人のうち1人かそこらだろうと思う。
 ほとんどの者にとっては、ごく普通の神社でありお寺であり、実際、その通りのものだろう。
 行くだけで、特別な変化が生じたりはしない。
 その意味では、自身が感じている第六感・霊感が想像や妄想だけでなく、何がしかの根拠に拠っているものかどうかは、この地で分かる。

 もちろん、守らねばならない決まりもある。
●死者に敬意を示すこと。
 面白半分に接すると、悪意が跳ね返る。
●みだりに、あちこちに立ち入らないこと。
 「光の玉」が見える人もいるだろうが、そういう人はそこに近付いてはならない。

 具体的には次の手順などがよいと思う。
 駐車場に車を入れたら、先に公園に行き、そこで手と口を清める。これは上の手水場で水が出ないことが多いため。
 山門下で合掌。階段を上がり、お焼香をする。
 ご本尊様に手を合わせる。
 ゆはずの泉には、柄杓が置いてあるので、それで水を汲む。
 (テレビで見ていたら、その柄杓をそのまま口につけて水を飲んでいる人がいた。泉が汚染されるので厳禁だ。左手に受けてそれを飲むこと。)
 帰路は、慰霊塔の周辺で撮影させて貰えるとよい。
 「写真を撮らせてもらいます」などと、予め口に出して断る。
 階段下で、退出の拝礼をして去る。 

 とりあえず、私は20年間も苦しんだ内蔵の筋膜腫が完治した。
 訪れる度に、泉の水を汲んで煮沸し、コーヒーを飲むが、その度に「良くなっている」と自覚する。
 もちろん、「病気を治して欲しいから」という気持ちが先に立つと、概ね失望することになる。
 神社であれ、お寺であれ、現世利益を与えるために存在しているのではない。