日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎御堂観音で考える

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◎御堂観音で考える
海で幾つか拾って来たので、すぐ翌日に御堂観音に参拝しました。
ここには、あの世に繋がる「穴」があります。
前回書いたと思いますが、「穴」や「窓」は便宜的な表現で、実際は球体に近いかたちをしているようです。
目ではよく見えないのですが、「何か」が存在している実感があるのです。
神社やお寺など、神官や僧侶、参拝客が毎日、お務めをする場所では、人為的な「穴」が出来ます。
そういうのは「念」によって開いた穴だと思われます。
他方、ここのように、自然に開いたものもあります。

こういう所には、幽霊が集まり、出入りしています。
人のかたちをして、自我を持つ霊が「幽界の霊」で、すなわち幽霊。
何か囚われの念があり、霊界に行けない魂のことです。

幽霊たちが執着心を抱え、この世に留まりたいと思っても、やはり次第に自我が崩れて行きます。
このため、画像に捉えられた幽霊は、多く断片的なものです。
霊感の強い人は、声が聞こえることがあると思いますが、自我が崩壊し始めると、言葉も意味のあるものではなくなって行きます。
元々、死者は死んだ時点で思考力を失い、喜怒哀楽の記憶などを自我の力で繋ぎ留めている存在です。
念が弱まり、自我が壊れ始めると、総てが崩壊に向かいます。
一方、執着心をあまり持たず、すんなり霊界に向かい、正真正銘の「霊」になると、自我そのものが失われてしまいます。
感情や経験のひとつ1つの要素は存在しますが、かつて「ひとりの人格」を形成していた自我はなくなってしまいます。
その意味では、死んでも存在が消えることはありませんが、死ねば「かつての人生」は失われてしまいます。よって、「死ねば終わり」もまた真実です。

たまに「科学」を振りかざして、死後の存在を否定する人がいますが、科学は「なぜ生命が生じたか」をまったく説明出来ていません。
その反面、神を主張し、あの世に現世と同じような世界・社会があるかのような思想をするのもまた誤りです。
「なぜそれが起きたか」は、注意深く証拠を集めつつ、演繹的に検証していく必要があります。
帰納法的に「科学」や「神」を持ち出して説明するのは楽ですが、実態をよく説明出来ていません。

画像は御堂観音の境内から、外側に向けて撮影したものです。
目でかたちを追う人には見えませんが、圧力を感じる人は確実にいるでしょう。

境内に入る際には、具合が悪く、階段に手をついて登りました。
お線香をあげたら、さっと気分がよくなって・・・と書きたいのですが、歩けるようになっただけで、まだ3メートル後ろに視線を感じます。
多くは神社で下りたが、ついて来ているものもいるわけです。