◎通り道
神殿や本堂の「扉」の前で写る霊の姿と、自然発生的に出来た「穴」の前で写るそれは、まったく違います。前者は、正面(神殿や本堂)を見ているのに対し、後者は私のことを見ています。
人為的に作られた「扉」にせよ、自然発生的に出来た「穴」にせよ、いずれも霊界(海)に繋がるルートの一種であり、かつ磁場のように周囲の霊的存在を引き寄せているわけです。
この「穴」や「扉」を通じて、霊界との交流が可能となるので、「通り道」でもあり「川」のようでもあります。
神殿や本堂では、日々の勤行によって「扉(通り道)」が開かれるのですが、これは磁場となって霊たちを引き寄せます。この時の霊は通常ルートで霊界に向かう者なので、ごく普通の表情で写ります。
私のように、自分が磁場になっている者が扉との間に立つと、そういう霊たちを惑わすことになるので、正面に立つのを避ける必要がありそうです。
なお、神社・お寺の外で撮影した霊が「総て私を見ている」ことで、自分が煙玉(穴)を抱えた存在だということが分かりました。なぜそうなったかという理由は、たぶん、「心停止した経験」と無縁ではないと思われます。
かたや、「穴」の近くにいる霊は、基本的にあの世に向かえずにうろうろしている者たちなので、おどろおどろしい表情をしています。生きている者の場合も、幽霊たちと同じように心の中はどろどろで、恨みや怒り、嫉妬心や猜疑心などを抱えているわけですが、それらは肉体の中に隠されています。
幽霊には、心中を隠す術が無く、心がそのままかたちになって表れるので、怖ろしげな形相になってしまいます。
この世の人の多くは、霊を「怖ろしいもの」と捉えがちですが、それは人を顔かたちによって判断したり、財産で量るのと同じことです。要するに「差別」と同じこと。
「顔が怖い」という理由で、いきなり殴られれば、誰でも怒ります。
霊能者や祈祷師の前に現われる霊の多くは、怒りの言葉を発しますが、自分に向けられた蔑視に応えているのです。
幽霊は自我を存続させるために、複数が合体し、念の力を強化します。多くは悪意が基盤になっているので、幾十、幾百と合体することで、次第に悪霊化するのですが、そういう場合は、「叩いて壊す」ことも必要になります。
ですが、もちろん、そういうケースは多くありません。
大半は、丁寧にご供養することで、そのことで霊界に送り出すことが出来るのです。
顔が怖いからと言って粗暴だとは限らず、見た目と素行は「別のもの」だと認識する必要があります。
2回前の画像では、白い上着を着た2人が割と鮮明に写っています。
ごく自然な立ち姿なので、まるで実際にそこに立っていたかのようですが、やはり周囲に人はいませんでした。
突然、フラッシュが光ったので、相手の方が驚いたのではないかと思います。
次からは、神殿の正面には立たず、左右の端に立つことにしました。
私なりの「終活」はまだいくらか続きそうなので、「反省はせず、次に繋げる」方針で行きます。