◎さらに追検証
17日の画像について、ガラス窓だけに存在する「顔」があるようなので、画像のトーンを変えてみました。
やはり、横向きの女性の顔がダラス窓だけに出ているようです。
実在の女性の右隣にいる必要があるのですが、そこには誰もいません。
お寺や神社の場合、人為的に「霊気の流れ」のようなものが作られるのですが、境内に現れる人の姿は、大半がその流れに沿う、いわば「通り過がり」の者たちです。
その類の姿と若干、印象が違いますので、これについては、この場にいる実在の誰かと関係しているのかもしれません。
「念」もしくは「思い入れ」があるようで、幾らか気色悪さを覚えます。
執着心から解放されるよう、お焼香をすることにしました。
映画や小説と違い、「鏡」の中に出ることは「まったく無い」のですが、ガラスには映ります。
鏡とガラスの違いは、光が反射するか、交錯するかの1点だろうと思います。
2枚目の麦藁帽子の方は、やはり意図的に「消された」と思います。
一瞬でも「見間違いの可能性がある」と考えたのを「悟られた」ということです。
「気のせいではないからね。これは偶然には起きないだろ」と言っているのではないか。
この手のは時々起きます。
姿(存在)をすっかり消される場合もあります。
ただ帽子を脱ぐだけなので、フェイクも簡単に出来るわけですが、この場合、その行為に何の意味もありません。
ここでの作業は「映える」ためでも「霊能者と呼ばれる」ためでもなく、「自らが生き残る」ために行っているのです。
では、人影の多くが実態として存在しているとして、その先、一体何を求められているのでしょうか。
最近、「出る」傾向が顕著になっており、毎回、何らかのかたちでしるしを残します。
「助けてくれ」と伝えようとしている者もいますが、それだけでは無いと思います。