日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

格差は当たり前

小泉内閣時代に行われてきた「改革」なるものの本質は、単に規制緩和・自由化に過ぎませんでした。
これは格闘技に例えると、非常にわかりやすくなります。

人材が乏しい場合、階級別の試合をしていては、盛り上がりに欠けます。
試合自体が決まりきったものになりつまらないし、お客も集まらない。
そこで主催者が考えるのは、いかにも客の関心を引きそうなテーマで、「真のチャンピオンを決める」こと。
最も強いものを探すという目的なら、階級というものは不合理だということになります。
それなら、階級なるものを撤廃し、自由に競争させれば、試合も活発になるし、客の関心も集まるだろう。
これが規制(=階級)緩和と自由競争の理屈です。
確かに、身長2mを超えるチェ・ホンマンに、小柄な日本人やタイ人が立ち向かうのは興味を覚えます。

実際には、階級制が求めていたのは、真に強い者を決めるため、「条件を同じく」しようということであったはずですが、ここでは「人間は対等、個人は平等」という社会正義に理屈を置き換えます。
だって戦場(殺し合い)には階級制は存在しませんからね。
同じように、普通の社会生活でも、人生は色々、個人はそれぞれ、ということです(よく聞きましたね)。

ところが、実際に階級制を無くすとどうなるか。
最初の1、2回は面白く感じ、また軽量でも能力に秀でた者はソコソコ戦えたりします。しかし、やはり体格で勝る者は圧倒的に有利で、同じように修練しているのならやはり大きいものが勝ちます。
結局はヘビー級のチャンピオンが最も強いということに。

資本の場合も、大きい企業は圧倒的に有利です。大資本はサービスや宣伝に大きな費用を投入できるし、対抗相手が潰れるまでの間安売りできます。利益は競争相手がいなくなった後に、じっくり確保すればよいだけの話ですので。

規制を緩和すると、ある一時期の活気は増しますが、結局、富は「持てる者」のところに集まることになります。小泉「改革」なるものは、結果的に強者、持てる者を利する結果になるのは必然です。

小泉改革の最大の焦点は郵政民営化で、これは郵政職員を公務員から切り離すことと、将来の国の持ち株を売って財政赤字を減らすことが目的でした。
途中経過はなかなか大変で、あたかも「家が苦しいから、娘を遊郭に売る父親」のような心情であったと推測でき、多少は同情できるところもあります。
小さい子どもたちが飢えている姿に直面すると、「家族を救うため」という大義名分はいかにも筋が通っていそうです。娘は泣く泣く遊郭に行き、周囲の人々はそうせざるを得ない親の気持ちを慮って、必ずや涙することでしょう。
しかし、娘を売った代金は、同居する叔父さんたちが独占しようとしています。飢えた子どもたちにはほとんど回らない。
こんなことなら、たとえ食うや食わずの貧乏暮らしでも、境遇に応じた生活を心掛ければ娘を売らずに済んだのでは、と考える人も多いことでしょう。

郵政民営化はともかく、近年の、なんでもかんでも自由化、規制緩和はまずかったですね。
とりわけ大店法の改正が、地方経済に長期間悪影響を与えるであろう事は必至です。
流通業大手はバシバシ地方出店しつつ、資本統合を図ろうとしています。

前の自民党幹事長は、自分だけズルをして儲けようと考えたIT企業の経営者のことを、「息子だ、弟だ」と呼んでいましたが、言い得て妙です。自民党民主党もしょせんは同じ穴(資本統合を図っている者の仲間)で、親戚同士ですね。規制緩和に乗っかって、勢力拡大にすすむ企業グループの中核が、野党第一党の関係者ということであれば、半ばはデキレースと一緒です。