日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

第8話 魚の女房の話  (雫石地方)

第9話 魚の女房の話 (雫石地方)

今は昔。ある所に正直な漁師がいた。川で網を打ったり、釣ったりして雑魚を取り、その日暮しをしていた。元々欲が無いから金儲けをしようとは思はず、余分に獲った魚などは川へ放してやるほどだったので、家はひどく貧乏であった。だから四十を過ぎても妻もなく、男はずっとヤモメ暮しである。
ある日のこと、若い美しい女がこの男の家を訪ねて来て、「どうか私を置いてください」と頼んだ。漁師は「俺は貧乏でダメだから、他さ行って頼んで見ろ」と言った。すると女は、「私はお前さんの気前に惚れて来たから、是非女房にして置いてくれろ」と言ってきかなかった。
男は「俺はお前の様な美しい女房を持つてもこの通り貧乏だから仕様がない。だから帰ってくれ」と言うと、女は「私はお前さんを見込んで来たんだから今更行く所もない。わたしには親も兄弟もなく一人ポツチだから置いてくれ」と言って、男の言うことをきかない。
仕方なく漁師はその女を女房にすることにした。

 何ヶ月かの時が過ぎ、亭主の方は相変わらず毎日漁に出ては魚をとって生計を立てていた。所帯を構えるようになっても、暮らしぶりは前と何ひとつ変わらない。しかし、この女房を置いてから不思議なことに、朝夕の味噌汁が美味くなった。亭主はそれがあまりに美味いので、「どうしてこう美味いのか」とその訳を聞くが、女房はただにこにこ笑って何とも答へなかった。
同じ味噌でも自分が作ると不味く、妻が作るととても美味かった。亭主の方は「何時か妻の作り方をこっそり見てやろう」思っていたが、なかなかコツを見抜くことが出来なかった。

 ある日、亭主は「明日は町へ行くから」と言って、宵のうちに仕度をし、朝早く表口から出たが、しかしこっそり裏口から回って中に戻り、梁(はり)の上に登り隠れて見ていた。
女房は夕方になって、「そろそろ夫の帰る時分だ」と思い、夕飯の味噌汁を作り出した。
夫が「はて、どんなふうに作るのか」と思って眺めていると、女房は戸棚から味噌を出して摺鉢で摺り、それから鍋に水を入れ自分の尻を浸し、尻をゆさゆさと洗った後、先ほどの味噌を入れ炉にかけた。
亭主は「なんと汚い真似をする」と思って見ていると、女房は水を汲みに川に出かけた。
男は何食わぬ顔をして梁から降り、今ちょうど盛岡から帰ったような振りをして、勝手口で草鞋に着いた泥を洗い流した。

 晩飯の時、男がいつも「美味い」と言って食べる味噌汁をその夜に限って食べないので、妻は不審を抱いた。
「何故食べないのですか」
 女房に訊かれた亭主は、よほど黙っていようと思ったのだが、ついには「毎日一生懸命飯を炊いてくれるお前には気の毒だが、これからは汚い真似をするのは止めてくれ」と言いつけた。
 これを聞いた女房の表情は見る見るうちに暗くなった。
「お前さま。私は一生お前さまと連れ添って、お前さまを幸せにしてあげたいと思っておりました。しかし、このように見破られてはそれも出来なくなりました。実は私は人間ではありません」
 亭主は驚きのあまり声も出ない。
「本性を見破られたからには、わたしはもうここにはいられません。明日元の住家に帰りますので、お前さんも今までどおりマメに暮らすようにしてください。お前さまから受けたご恩はけして忘れません。明日、いつもお前さんが行くあの淵の岩の上に来てください。そうすればわたしの正体もわかりますし、その時にはお前さまに差し上げたいものもあります」
 そう言うと、女房はその晩の内に家を出て、どこかに去ってしまった。

 亭主は、女が汚い真似さえしてくれなければ、いつまでもこの家にいて貰いたいのであろが、一方で女房が人間の性でないと言うから気味が悪くも感じる。「とにかく明日、川淵へ行って見れば万事分るべえ」と半ば諦めた。
 女房が家に来てからのことを振り返ると、良いところだけが思い出される。亭主は、妻の笑顔を思い浮かべては、まんじりともせずに夜を過ごした。

 翌朝、妻か告げた岩の上へ往くと、女は既にそこで待っていた。改めて女房を見ると、いつもより美しく着飾っているので、男も気恥しく感じるけれども、側へ近寄ってみた。
女はにっこり笑って、「これをお前さんに上げます」と言って、立派な漆塗りの手箱を差し出した。そして「実は私はかつてお前さまに放されたことのある魚です」と言ったかと思うと、女はすぐに水中に跳び込み男の前から消えてしまった。
 一人残された男は、女が去った淵を毎日見に来ては、その場に長い間座っていたということである。
 はい。どんとはれ。

<ひと口コメント>
 みちのく版の「人魚姫」か、あるいは「浦島太郎」でしょうか。
 妻の秘密を垣間見て、それをつい話してしまったばかりに、男は美しく優しかった妻を失ってしまいます。天涯孤独なのは、男が妻に出会う前と同じですが、最良の妻を失ってからの切なさはどれほどだったでしょうか。
 この説話には、魚の女房に去られた後の男の心情はまったく残されていませんが、想像するに余りあります。いくらか付け加えようかとも思いましたが、手を入れられたのはわずかです。
 「失ってはいけないひと」を失った喪失感は、誰の心にも一つ二つは残っているはずですので、心の痛む話です。
 「お尻をゆさゆさ洗った水で作った味噌汁」の箇所だけはややユーモラスですが、恋情にまつわる余韻があります。

岩手県雫石地方に伝わる伝説)
出典:岩手県教育会岩手郡部会『岩手郡誌』(1941)より