第7話(怪異譚) あの世に引きずり込まれそうになる話
この話は知人の実体験である。生々しさを減じるために、場所と時代背景を替えて記すものとした。
今は昔。奥州道を一人の男が北を目指して歩いていた。男は薬売りで、今朝方盛岡を出立したのだが、その日のうちに十里ほど進み、沼宮内に至るつもりでいた。沼宮内には男の家があり、妻がそこで男の帰りを待っていたのである。
昼過ぎになり、道の半ばを過ぎたところで、にわかに雨が降り出した。
「つい先ほどまで雲ひとつ見えなかったのに」
男は空を見上げつぶやくが、雨は瞬く間に土砂降りになる。
この雨を避けるため、男は慌てて道の脇の林の中に駆け込んだ。
男は柏の大木の陰で雨をしのいでいたが、雨はいっこうに止む気配が無い。
「これはまたどうしたものか」
男が思案していると、風で周囲の木々が揺れ、林の向こうに宿屋らしき建物があるのが見えた。
「はて。こんなところに宿などあっただろうか」
ひどい雨で、思案するどころではない。男はその宿を目指して、林の中の小道を進んだ。
林の向こうは切り立った崖で、下には北上川の支流が流れている。周囲を探すと、すぐ傍に橋が架かっていたので、それを越え、宿屋の入り口に立った。
「もおし」
声を掛けると、中からは主人らしき爺が出てくる。
「この雨で難儀しております。しばし軒先を借りてもよろしいか」
この問いに、爺が実に無表情に答える。
「仮にこの雨が止んでも、この先は街道がぬかるんでおり今日は一里と進めませぬ。ここにお泊りになればよろしゅうございます」
爺に確かめてみると、「食事代は別だが、泊まり賃はわずかに六文」だと言う。男は六文では蕎麦一杯も食えぬ値段であるため少し不審に思ったが、別にあれやこれやと追加の代金があるのだろうと考え直した。
案内された二階の部屋に入り、鴨居に竿を渡してもらい濡れた着物をそこに掛けた。
体を拭き乾いた衣に着替え、少しの間は座っていたが、すぐに眠くなり、そこで眠り込んでしまった。
タントンと、どこかで太鼓の音がした。この音で男は目覚め、音のするほうを確かめようと窓に近寄った。
窓を開けると、もはや夕暮れで、雨はすっかり上がっている。今度ははっきりと太鼓の音が響いた。
男の部屋の窓は宿の後ろ側を向いていた。そこには林があり、その林の向こう側に灯りが幾つも点っている。音はそこから聞こえてくるのだった。
灯りの下には、鮮やかな色の浴衣姿が、何十も見える。
「今は盆踊りの季節ではないがなあ」
よく見ると、そこは林の中に開けた一町四方ほどの平地で、中央に太鼓叩きがいて、その周囲では老若男女が百人も集まって踊っているのであった。
「何か祭りがあるのだな」
男は一人納得し、そのまま灯りのある方を眺め続けた。
そのうち、ふと気がついてみると、人混みの中、ひとりの若い女が男のいる方を向いていた。まだ若い二十何歳かの娘である。
娘は男を見て取ると、にこと微笑んで、隣にいた別の女に何事か囁いている。その隣の女も、宿の方を向き、二階の男を見つけると、また前の女と同じように微笑んだ。いずれもかなりの美人である。
女たちは同じように仲間に囁き、男を指差した。こうしているうちに男を見る若者が七、八人に増えた。
「あれあれ、あそこに」
そんな声も聞こえてくる。
男が黙っていると、最初の娘が男のいる方に近づいてきた。宿から五間ほどの距離まで近寄ると、娘は二階を見上げ、男を誘う。
「あなたさまもご一緒に踊りませぬか」
端正な顔立ちの娘である。夕闇の中、白い肌に真っ赤な唇が浮かんで見える。
これを見た男は、欲情を覚えずにはいられない。衣を着替え、下に降りようと考えた。
「いけませぬ!」
後ろにこの宿の主人が立っていた。
「山に棲む魔物に見込まれたようですな。あれはこの世に生きる者たちではござりませぬ。未練を残して死んだ魂が悪霊となり、まだ生きている者をあの世に引きずり込もうとしているのです」
「そんな馬鹿な。死霊や化け物の類には見えぬ」
再び階下を見下ろすと、先ほどの娘のいた辺りには、五人ほどの人影が立っていた。
「はやくこう。お前が来ぬならそこまで迎えに行くぞ」
この世のものとは思われぬおどろおどろしい声である。
「まさか、女に欲心を感じられたわけではないでしょうな。見たところ、妻子のあるお方とお見受けしましたので、この山に棲む魔物のことはお話しませんでしたが」
「いや。実は」
男は少したじろぎながら、自分が娘に欲情を覚えたことを正直に伝えた。
「それはいけませぬ。あの魔物は五欲の匂いにひきつけられるのでございます。ではすぐに荷物を取りまとめてお逃げなさい。勝手口から出て川筋を少し下ると、吊り橋がありまする。それを渡って、街道に出て、できるだけ遠くにお逃げなさい」
取るものもとりあえず、男は荷物を引っつかみ、勝手口を走り出た。
「おおう。どこへ行った~」
地獄の釜の中から響いてくるような男女の声が、交互に男を追いかけてくる。男は生きた心地がせず、ただ一目散に闇の中を走った。
三四町も走ると、夕闇の向こうに吊り橋がうっすらと見えた。
「あれを越えさえすれば助かる」
男が吊り橋の入り口に差し掛かり、橋を渡り始めようとしたときである。
橋の向こう側の岸を見ると、そこに男の妻が立っていた。妻は男に向かって両手を広げ、真剣な顔で男を留めようとしていた。
「あれはどうしたことか」
立ち止まって、よくよく見ると、やはりそれは妻である。
「ここを渡るなとはどういうことだ」
男は吊り橋の綱に手を掛けようとした。するとそこは何もない虚空である。男は危うく崖から落ちそうになった。下を覗いて見ると、最初に渡った小さな橋のところとは違い、断崖となっている。
はるか下には、渓流が音を立てていた。
「あの爺は俺をたばかったのだ。さては魔物の一味か」
まさに危機一髪である。男の背筋にはぞぞと寒気が走った。
「妻は?」
再び川の向こう岸を望んだが、そこには誰もいなかった。男はその場所からさらに川岸を下り、半里近く歩き、別の橋を渡って奥州道に戻り、渋民で宿を取り事なきを得た。
男が沼宮内の家に戻ると、妻はいつもと変わらず男を迎えた。
「お前。昨日はどうしていた」
「昨日のうちにお帰りになるはずでしたのに戻られないので案じていました。夕方、うつらうつらしていた時に、途中まで迎えに行く夢を見ました」
世間では、夫の無事を案じる妻の魂が飛んで、魔物から男を守ったのであろうと噂した。
後で聞くと、奥州道をそれて男が立ち寄った辺りには、無縁仏ばかりが集められた墓地があるだけで、宿屋など存在しなかったということである。
はい。どんとはれ。
<ひと口コメント>
何年か前に知人が実体験した話の骨格を残し、あとは江戸の背景としました。知人はバイクで岩手県を旅していましたが、山の中の広場に提灯が何百も並んでいるところに出くわしました。灯りの下では百人くらいの人が盆踊りを踊っています。バイクのスピードを緩め踊りを眺めながらゆっくりと進んでいるうちに、踊りの輪の中の娘が知人に気付き、「こっちへ」と手招きをしました。
知人はそこへ行こうとしましたが、バイクを道の端に寄せる際に、石に乗り上げ、危うく転びそうになってしまいました。
一旦、バイクを止め、エンジンを掛け直し、再び踊りの広場に向かおうとしたら、先ほどまで見えていた灯りは全くなく、古く荒れ果てた墓だけが立ち並んでいたということです。
「今は昔」としましたが、まだ十年くらいしか経っていません。
付記)宿屋の主人が「宿代は六文」と言うのは、いわゆる三途の川の渡し賃の額です。