;
◎甚平坂の話
奥州道中を盛岡から北上するのには、昔は四十四田ダムの東側を通って鵙市に至り、そこから渋民の宿、馬場、巻堀、川口と中継しました。
今とは道筋が違いますが、そちらが本当の奥州道中で、今の4号線ではありません。
ちなみに、四十四田は「しじゅうしだ」ではなく、元は「しるしだ」で、語源的には市内「尻志田(しりしだ)」と同じです(たぶん)。音感では、おそらくアイヌ語です。
馬場は馬を取替える場所ですが、姫神山の西の入り口なので、ここにも宿屋はありました。馬子・人足らはここに泊まったのだろうと思われます。一般の旅人は巻堀の神社付近で宿を取ったことでしょう。
その馬場から巻堀へ向かう中間に「甚平衛坂」があります。
今はなだらかな坂ですが、それも戦後に斜面を切り崩してこうなったらしく、昔は急坂でした。
坂の上には茶店があったとのこと。
北から南に向かう際に、この急坂をへいこら上ったら、かなり疲れますので、そういう人が一服するために利用したわけです。
その茶店の主人が甚平衛さん。
この地を甚平衛坂と呼ぶようになったのには、次の謂われがあります。
ひとつ目は小学生向けの話です。
昔、北上川がこの坂のすぐ真下までうねっていた頃のこと。
茶店の主人の甚平衛さんは、雨が降ると、増水を心配し、坂の上に立って川の水量を見ていた。もし川が溢れそうなら、通行人を制止するためだ。
ある日、大雨が降り、北上川が氾濫した夜に、甚平衛さんは水量を見に行ったが、そのまま帰って来なかった。どうやら流れにさらわれたらしい。
村人は甚平衛さんを偲び、坂の上に石を建て供養することにした。
ふたつ目は少し違います。事実はこちららしい。
甚平衛さんは、坂の上で茶店を営んでいた。
ある時、悪人たちが茶店の銭を狙い、甚平衛さんを殺して、川に躯を投げ捨てた。
村人たちは、甚平衛さんを憐れみ、供養のために石を建てた。
北上川の側(北に向かって左側)の坂の上は、畑になっていたのですが、その奥のところに、実際に石が立っていました。
自然岩を割り、平らにしたものでしたが、文字がどうなっていたかは記憶していません。そこは私有地で、畑にはあまり立ち入りませんでした。
伝説の類は、子孫のことを慮ったりして、悲惨な出来事は言い換えてしまいます。
また、権力者については様々な「大王伝」が語られますが、概ね作り話。
実像とはまったく別の話が語られています。
江戸や戦国時代の話なら、多くが作り話です。
今回、数十年ぶりに現地を訪れたのですが、石の置かれた辺りは、笹薮が生い茂っており、今の状態は確認出来ませんでした。
その土地その土地の古い話は、ことさら取り上げて公で語るようにしないと、時間の経過と共に消え去ってしまいます。
こういう伝説は各所にあったほうが、愛郷心が深まります。
これらをなるべく掘り起こし、伝えていく努力が必要なようです。