日刊早坂ノボル新聞

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(北斗英雄伝)浄法寺城にまつわる謎

 天正十九年三月のいわゆる「三城攻撃」の時、一戸城を少しの間、三戸勢が占拠します。その中心となったのは、浄法寺修理(重安)と東中務(信義、後の朝政)でした。
 ところが、修理の弟である浄法寺重行と一族の浄法寺主膳の二人が、「留ヶ崎城が攻められている」との嘘の情報を報せます。浄法寺修理と東中務は大急ぎで三戸に出発しますが、手薄になった一戸城を、九戸勢が急襲し、奪還してしまいました。一戸城はこの後上方軍が到来するまで、九戸党の支配下に置かれました。

 浄法寺氏はそれまで、三戸南部ではあくまで「客分」の立場として扱われ、厳密に言うと家臣ではありませんでした。したがって、三戸と九戸の争いでは、ずっと傍観者的なスタンスを取ってきましたが、この明らかなしくじりの後、対応が変わっていきます。
 同年の夏頃には、南部信直が「浄法寺もこちら側に付いた」と野田某に報せていますので、この辺から三戸に臣として従うようになったようです。 
 なお、浄法寺は5千石ですので、家士(常勤の家来)として認められるのは150人程度となります。戦時には動員が掛けられ、3倍から4倍の兵力となるはずですが、それでもわずかに500人程度です。 

 この春から夏にかけて、浄法寺で何が起こっていたのかが大きな謎です。
 一説によると、一戸城が奪還された後、浄法寺城は弟の重行らによって占拠され、修理は三戸に留まっていた。浄法寺城は、六月に大谷吉継の指揮下にあった秋田勢により攻められ落城し、修理が城に戻ったとされています。
 浄法寺城跡の発掘調査では、実際に焼けた痕が土壌に残っているそうですが、果たしてそれがいつのものかはわかりません。翌年の破却の時かもしれません。

 問題は六月という時期で、まだ上方軍が出発する前のこととなっています。そういう情勢で、果たして単独で糠部の奥深くに秋田軍が攻め入ることができたかどうか。
 三戸南部は秋田勢ともあまり仲が良くなかったので、味方として遠征すると言われても、そう簡単に受け入れるとは思えません。三戸と浄法寺は目と鼻の先です。秋田が出てくるなら、当然、三戸南部も陣を構えたはずです。また、6月に浄法寺城が秋田勢の支配下に入ったなら、戦が終わるまで、そのまま秋田領になっていた可能性もあります。

 一方、鹿角の伝説では、大光寺の攻撃に曝されつつある鹿倉館(大湯四郎左衛門)を、浄法寺修理が救援しようと駆けつけたが、敵と見誤られ逆に攻撃され落命したとあります。修理はその後も生きていますので、おそらく一族の別の誰かだろうと考えられますが、これも前述の浄法寺城伝説とはそぐわない気がします。

 北奥全体の情勢として眺めると、8月の上方軍の来襲に合わせて、西から大谷・秋田勢が寄せてきたと見ると、難がありません。ただし、これでも浄法寺修理が三戸方として参じている状況とは食い違ってきます。何ヶ月かの間、浄法寺城を浄法寺重行がずっと保持していたことになるからです。

 このような矛盾を鑑みて、本作では次の通りの流れで解釈しました。
1)一戸城を九戸党に奪われた後、浄法寺修理は浄法寺城に蟄居していた。
2)浄法寺重行、主膳らの叛乱を看過できない状況となり、修理は弟、主膳を攻める。
 (信直による「こちら側についた」の具体的な意味を示す。)
3)浄法寺重行は、兄の攻撃を逃れ、九戸方の大湯鹿倉館を目指した。
4)浄法寺の旗印を見た大湯勢は、「修理が攻めてきた」と解釈し、これを攻撃する。
5)鹿倉館は大光寺に攻められ、大湯四郎左衛門は宮野城に逃れる。

 浄法寺重行は浄法寺の家史から抹殺されていますので、本来どこを所領としていたかは不明ですが、浄法寺領内の諸城のうち、浄法寺一族が居城した城で、かつ誰がいたかわからない城を宛てるものとします。