其の十七 赤蜻蛉の章 のあらすじ
天正十九年八月八日。
会津二本松城では、蒲生氏郷が羽柴秀次に謁見していた。羽柴秀次は、此度の奥州仕置きの惣大将であった。秀次は沼宮内城に篭るのが、かつて会ったことのある三好平八だという話を聞き、氏郷に平八を殺さぬように命じる。秀吉のあまりの凶状に、甥であり養子である秀次も不安を感じていたのだった。
天正十九年八月九日。
京の聚楽第の奥深くに、廊下を這いずり回る異様な姿の生き物がいた。着物を跳ね除けて現れたその顔は、関白秀吉のものである。
秀吉は、実子鶴松丸が幼くして死んだことで、我を忘れ暴れていた。
前田利家はこの秀吉の様子を見て、災いが身に降り掛からぬよう、秀吉の関心を朝鮮・唐征伐に向かわせることを決意する。
途中、大湯の手前で、一行は東中務の軍勢に出くわす。中務は東孫六の顔を思い出し、一行を引き止める。孫六は知仁太らを宮野に帰し、一人で東勢一千人余に立ち向かう。孫六は二十名以上の敵兵を倒すが、鉄砲隊の銃弾により倒される。
攻め手の軍大将は、蒲生四郎兵衛(郷安)である。四郎兵衛の元の名は赤座隼人と言った。
四郎兵衛の命により、騎馬兵は山頂の北の主館大手門と、南館下からの二手に分かれ、城内に攻め入るものとした。
南郭に攻め入ろうとした蒲生兵を、宙を飛んできた岩がぐしゃりと打ち砕く。
李相虎が拵えた投石機により石礫が投じられたのであった。投石機や震天雷になど城側の工夫によって戦況は著しく膠着する。
一方、寺田には南部利直が、蒲生軍のために兵糧を運ぼうとしていたが、九戸政実の率いる黒騎馬隊により奪い去られた。
天正十九年八月十九日の酉の刻。
前日の城攻めに失敗した蒲生四郎兵衛は、この日の夕方に襲撃を再開した。
四郎兵衛は城の周りに火を掛け、疾風が草叢に仕掛けた罠を除去する。
天正十九年八月二十一日。
石田三成は兵糧の手配が不十分であることを見て、直ちに三戸に対し手配を命じた。
蒲生四郎兵衛は、総勢二万五千を超える勢力となった討伐軍を率い、沼宮内城に総攻撃を掛けた。
風雨が去ったのは、ようやく宵の口に至った頃である。南館の下、搦手門の近くには、蟻のように寄せ手の兵が群がった。
数に勝る攻め手は、搦手門を破り南郭に侵入するが、これは城兵側の罠で、あの手この手で攻め手を煩わせる。
戦闘の中、紅蜘蛛が傷付き、これを救うために、長らく供を務めて来た猿田十三が命を落とす。
敵兵が中に攻め入った時に城を爆破し、損害を与えることが疾風らの狙いであったが、南郭の爆破は成功し、敵に多大な損害を与えた。
数に勝る蒲生軍は大手門口から攻め入り、北館の間近に近付く。
山ノ上権太夫は、高台の上にあった大岩を下の道に落とすことで、道を塞ぎ敵兵の足止めをしようとする。
仙鬼は、「平八と共に城を脱出しろ」という権太夫の命に一度は従ったが、盾を背負って戻ってくる。
権太夫は仙鬼の盾の陰で大岩を押し動かし、下の道に落とした。
しかし、敵の鉄砲隊の一斉射撃により、二人は銃弾に倒される。
瀕死の権太夫は、平八に向かい「鬼関白を倒し、北奥の民を救ってけろ」と乞い、独りその場に留まり自爆した。
天正十九年八月二十三日。
この時、玉山常陸、兵庫の二人が塩昆布や干鮭を満載した荷車で掛け付け、南部勢は体面を保つこととなった。