日刊早坂ノボル新聞

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オザワ氏は伊達領の出身です

数日前に、ある夕刊紙に目を通したら、Tという作家が、オザワ氏のことについて書いていました。
「オザワ氏は偽物。岩手県出身なのに、相馬大作のことを知らない」に端を発し、相馬大作盛岡藩の家格が弘前藩よりも下位に貶められたことに対する義憤から、狙撃事件を起こしたことなどが綴られていました。
要するに、「オザワは郷土のことを顧みる人物ではない」と言いたかったのでしょう。
 
ところが、岩手の方々はご承知のとおり、オザワ氏の地盤の一関は、大別すると伊達領ですね。
T氏は、岩手県=盛岡(南部)藩をイメージしたのでしょうが、南部藩とは縁もゆかりもない人です。
南部の義士たる相馬大作を知らなくても、けして郷土愛に乏しい人ではない。(郷土じゃないし。)
鬼柳から北(旧南部領)に住む人だって、オザワ氏は岩手県出身かもしれないが、「同郷ではない」と思っているかもしれません。
 
相馬大作の義憤は、弘前津軽)藩が南部氏の家臣であった「大浦為信が、主家に逆らって津軽地方を乗っ取った」とみなすことが発端としてあります。
相馬大作事件は、津軽の独立から3百年近くも後のことですが、この時代でも「あいつらは昔は家来だったのに」という意識が残っていたとは驚きです。
ただし、岩手県内の古文書では、南部家サイドの都合の良い話しか残っていないので、どうやら歴史は自分に都合の良いように書き換えられている模様です。
相馬大作も、ねつ造された藩史をうのみにした結果、あんなことになったのでしょう。
 
実際には、大浦為信は、主の南部晴政の密命で、石川高信(南部信直の実父)と戦いました(遂には倒した)。
しかし、晴政が死ぬと、南部家の跡を継いだのは晴政の養子であり高信の実子・信直でした。
そうなると、主命を遂行した大浦為信は、途端に南部家の敵になってしまいます。
帰る場所の無くなった為信は、攻め取った津軽三郡を拠点とする以外に道はありません。
為信は自身の領土欲から、津軽を簒奪した訳ではないので、さすがに一方的に裏切者扱いをするのはどうかと思いますね。
(この辺は藩史にはもちろん書いてありません。逆に、弘前側では、大浦為信は久慈氏の係累ではなくなってますので、権力者の考えることは同じようなものです。ただし、市町村別の郷土資料を訪ね歩くと、これらの仔細が記録されています。)
 
そうなると、「元は家臣筋のくせにエラクなりやがって」という思いから、弘前藩主の狙撃を企図するような行為は、義士どころか、「ただのテロリズム」とみなすべきかもしれません。
今に例えるなら、「今も多額の援助を受け取っている国が、自国よりGDPが上回るようになったのは腹立たしい」として、その国の元首を暗殺しようとするようなものです。
これって、果たして愛国心でしょうか?
ちょっと違いますね。
 
やや脱線しましたが、冒頭のT氏は、相馬大作や義士云々は別として、よほどオザワ氏のことが嫌いなのですね。
「とにかくオザワが嫌い」という人は、世間にはかなりいるようです。
それ相応の理由はもちろんあるのですが、他の政治家も似たようなものです。