日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

病院にて

心臓病で倒れてから、もう少しで3年が経ちます。
最初は1か月の入院で、その後毎年治療を繰り返した結果、今は心臓のほうは落ち着いています。
しかし、最近は眼の硝子体を始め、体のあちこちから出血が見られます。 
心臓、すい臓、腎臓に加え、最近は眼科のお世話にもなるようになっていますので、月に4度は通院しています。
 
つい数日前、心臓の定期検診を受けました。
以下は主治医との会話です。
「先生。心臓の具合については、今は何も問題ありません。術後2年近くは、起きて普通の生活するのが難しいほど胸が苦しかったのですが、今は痛みはほとんどありません」
「そうですか」
「でも、なんとなく、私は今年じゅうに死ぬような気がしています。眼は前が見えないくらい出血しますし、下血もあります」
「下血のほうは、その方面の担当医に検査させましょう」
「昔、突然死しかけた時も、この前の心臓の時も、事前に死ぬような予感がありました。実際、心臓が止まってもいます。その後こうして生きているわけですが、死ぬという予感がはずれたわけではないと思います。今はそれぞれの時と、まったく同じような予感があるのです」
「〇〇(私の本名)さん。〇〇さんの場合は、今生きていることに感謝すべきですよ。あの時はかなり厳しい状況でしたから」
「致死率は20%くらいとお聞きしましたが・・・」
「それは手術中の話で、事後も含めると、だいぶ変わります」
ぎくっ。やっぱりそうか。
退院してから1年以上もの間、20分以上は立っていられないし、常時胸が苦しかったのです。
(致死率では、だいたい40とか50とかだったんだろうな。あるいはそれ以上。)
もちろん、どれくらいかは訊きません。今さら聞いても仕方ないです。
 
それでも、その医師からは元気が出る言葉をもらいました。
「この先のことを悲観して嘆くよりも、今生きていることに感謝すべきですよ」
なるほど。
死んでいて当たり前だったかもしれないのに、今は少なくとも生きています。
生きていてナンボで、生きていれば、今生での愛憎を継続して、味わうことができます。
あの時突然死していれば、妻子はすぐに路頭に迷ったことでしょう。
自分自身も、思うに任せぬ速度ではありますが、前進はしています。
死んでいれば、そのうちのひとつとしてもなく、結果的に何ひとつかたちを残すことなく消滅したことでしょう。
 
明日があると思うから、こだわりが生まれます。
「こうでなくてはいけない」「こうあるべきだ」という思いが、自分を責める理由になります。
要するに、5年後、10年後、20年後も生きていて、「こうあるべきだ」という前提でものを考えるから、苦痛が生まれます。
しかし、過去を乗り越えてきたから今があるわけで、今の自分には、たくさんの楽しいことがあります。
子どもたちが成長している姿を見られたり、季節折々の美しさを堪能できたりと、数限りなく見つけられます。
 
納得ですね。
何かある度に、やはり不平不満をこぼすでしょうが、「あの時死んでいなかったので、今がある」ことも思い出すようにします。
「元は死んだ身」だと思えば、大半のこだわりが無くなってしまいます。
きっとこれからは、うつ病とは無縁だろうと思います。