日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

(飯能)さらにまた瀧不動へ (その4)

イメージ 1

イメージ 2

続きです。

翌日になり、思い返してみたのですが、お不動さまに手を合わせる際に、正しい位置に足を置いていませんでした。
祈祷台?の手前には、両足の形を模った台石が置いてあります。
常々、「たぶん、これに足を載せるのだな」と思っていたのですが、よく分かりませんので、台の手前から拝んでいたのです。

気になり始めると、いよいよ気になってきます。
他の人の家に行き、玄関で挨拶をするのに、土足で踏み込んだら不味いですね。
「ええい。遠くないし、今日も行こう」
そこで、市役所や郵便局で所要を済ませた後に、またお参りに行きました。

宗教は現世に生きる人のためのものなので、興味はありません。
私は心停止を2回経験し、その後何が起きるかを垣間見てきましたので、宗教者の話を聞くと、正直、「死んだこともないくせにエラソーなことを言いやがる」と思ってしまいます。
(勧誘が来ると、「あなたは心臓が止まった後のことを経験しました?」と訊きます。)
もちろん、実際の経験から「死んでも終わりではない」ことには、自分なりの確信があります。

「死後の存在が証明出来るのか」という問いには、「もちろん、出来ません」と答えます。
「証明」は、科学的思考法のレトリックなので、あの世には通用しません。
科学は哲学(世界観)の1つの方法に過ぎません。
例えて言えば、囲碁のルールだけで、バレーボールや水泳など総ての競技を語ることは出来ないわけでして。
あまり例えが上手くないですが、ま、そんなもんです。

あるいは、
お不動さまが自分に近しい存在だと、感じ・考えている。
時々、お不動さまの前で手を合わせると、心が晴れる。
そういう説明の仕方をしてもかまいません。
他の人に同意を求めるつもりは毛頭なく、それぞれの人が「勝手に幸せになってくれること」を願います。

ところで、お山の周囲には、羅漢さま?らしき像が置かれています。
その周りに、バラバラと錆びた古銭が撒いてありますが、概ねこれらは「厄」です。
私も東日本の色んな神社やお寺で、それこそ何千枚も撒いてます。
同じようなことをしているのは私だけではないようですので、こういうお金を見掛けても、けして拾わないようにしてください。

帰宅したら、ようやくスムーズに鍵が開くようになりました。
冷蔵庫はまだ回復していません。
今の事態がはっきりするまで、何度もお参りする必要がありそうです。

画像は祈祷台(これは神さまの時の言い方か)と羅漢様のような像です。