日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

(日高・飯能) 高麗神社43日目の参拝

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 彼岸の中日を越えたので、「おそらく巾着田の人出も収まりつつあるだろう」と見て、百日詣に出ることにしました。
 ところが、日高に入った辺りから気分が悪くなり、コンビニの駐車場へ入ります。
「この具合の悪さは一体何だろ?」
 心臓?肺?それとも低血糖
 患部が多いので、どこの調子が悪いのかわかりません(苦笑)。
 ひとまず、そのまま休憩します。
「もはや家人が傍にいてくれないと、外出もままならないのか」とがっくりします。

 小一時間が過ぎ、何とか動けるようになったので、「早いとこ参拝だけ済ませて帰ろう」と出発しました。
 家を出た時点では、参拝の後、日帰り温泉に行き、帰路には買い物をしようと思っていました。
 ま、この状態では致し方ありません。

 ヨレヨレで神社に入り、手を合わせます。
 願い事は、「あと半年で良いので体が持って、原稿がひと区切りするところまでやらせてください」でした。

 これまで、南部利直と北十左衛門のいきさつを度々前振りして来ました。
 やはり、行き着く先の話を書かねば落ち着きません。
 この2人は年齢が近かったせいか、度々衝突した模様です。
 もちろん、片方は藩主で、片方は家臣の立場。
 家臣と言っても、北一族は親戚で、さらに十左衛門は義父が北信愛という家臣団の重鎮だったので、足蹴にするわけにも行きません。
 南部利直は、家臣の1人が無礼な振る舞いをした事件を利用して、北十左衛門を叩こうと考えました。
 あろうことか、わずか十数歳だった十左衛門の息子に「あ奴を殺して来い」と命じたのです。
 主の命に従ったその子は、もちろん返り討ちに遭います。
 北十左衛門はそのいきさつに腹を立て、大量の金を馬に積んで逐電します。

 次に北十左衛門が現れるのは、大阪の陣。
 「南部十左衛門」と自称し、豊臣方に加わっていたのです。
 かたや南部利直は徳川方なので、当然、周囲から「あれは誰だ」「お前の身内か」と質されます。
 戦が終わった時、十左衛門は捕縛され、南部利直の前に引き出されました。
 利直は十左衛門の両手両足の指を一本ずつ切り落とさせた後に、最後は自ら弓で射殺しました。
 よほどの怨讐を感じていたということです。
 
 笑えるのは、後代になり南部藩の役人が書いた物に、「戦の際には血を残すために、親族を敵味方に振り分ける。北十左衛門は利直の意を汲んで、あえて敵方に参じたのだ」とするものがあります。
 バカを言ってろ。
 将来、戦が起こることを予期し、その時に備え、家臣の子を殺させるわけがありません。
 未来を完璧に予知できる予言師でもいたなら話は別ですが。

 これらは藩の威光を示し、あたかも利直が名君だったと思わせるため?の役人の下手な作り話です。
 歴史は「生き残った者のための作り話」とはいえ、あまりにもひどい話です。
 この辺はきちんと正す必要がありそうです。