日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

扉を叩く音 (14)

 高麗神社への「百日詣」の達成と時期を同じくして、極端に酷い不整脈が終わり、花粉症も治まって来ました。あれほど酷かった不安感や恐怖感も感じなくなりました。
 もちろん、各々の間の因果関係は薄く、例えば1)花粉症で肺がやられる⇒2)心臓への影響が出る⇒2)死にそうなほどの体調不良から来る不安感や恐怖感、という流れで悪循環が起きた、と考える方が自然です。
 あの世が近くなったので、妄想や焦燥感に取りつかれた、というわけです。

 ただし、説明のつかない事態は依然、残っています。
 深夜2時に、玄関の扉を叩く音は、私だけでなく他の家族も聞いています。

 また、今は一部を除き体調がかなり改善されたのですが、今でも時々、人影を見ます。
 肉体が無いので「人影」と書きますが、実際には、はっきりと見えています。

 つい数日前にも、スーパーの駐車場で車を移動させていると、すぐ目の前を人が横切りました。
 急ブレーキを踏み、前を確かめたのですが、誰もいません。
 その人が帽子を被った中年の男で、さらにその帽子が農家の方が被る作業用キャップだってのもはっきりと見えていたので、なんとも説明がつきません。

 まあ、扉が開かなくなった時の、あの不快感を思えば、「見えた」のも「見えた気がする」のも、どうってことない出来事ですね。
 扉が開かなくなる時には、もしそれが鍵のせいなら鍵の周りだけに力を感じるはずですが、ドア全体を接着剤で貼り付けたように、ピクリともしません。
 これも、同時にそれを経験した証人がいますので、私個人の妄想ではないでしょう。

 ところで話は替りますが、昨夜、たまたまテレビの前を通ると、「人形が声を出した」てな感じの内容を流していました。
 詳細は見ませんでしたが、当家でもそれと同じような経験があります。

 次女が4歳くらいの頃、数年間、同じ人形を抱いていました。
 金髪のビニールの人形ですが、その外見から、次女は「マリリン」と名前を付け可愛がっていました。
 家に居る時だけでなく、どこに出掛ける時も一緒です。当然、寝る時は隣に置いて眠りに就きます。
 小学校に入ると、さすがに学校には持って行けないので、ベッドに置いて行くようになりました。
 家に居る時には隣に置くことが多かったのですが、それも次第に減って行きます。
 ある時、次女のベッドに行くと、マリリンの姿が見えません。
 いつもべったり一緒だったので、次女に確かめました。
 「マリリンはどうしたんだよ」
 「え?」
 回りを見渡すと、マリリンはベッドの脇に落ちていました。
 私はその人形を拾い上げて、次女に渡しました。
 「あんなに大切にして来たのに。マリリンが可哀相だろ」

 次女が私から人形を受け取り、ベッドに体を起こした時のことです。
 マリリンが「まあああ」と声を出したのです。
 父親(私)の方はさすがに驚きました。
 マリリンは頭と手足の先がビニールで、胴体が布製の人形で、音を出す装置は入っていなかったからです。
 「あーびっくりした」と人形を確かめましたが、別段変化はありませんでした。
 「まあああ」は、たぶん「ママ」で、次女が相手にしてくれなくなったからではないか、と一瞬思いました。

 人形が頭が固く、中が空洞、布袋に綿を入れた構造だということと関係している場合もありそうですし、次女が次第に相手をしてくれなくなったので「寂しがっている」という解釈をする人もいるでしょう。
 でも、その時にはっきりと分かったのは、いずれにせよ別段、怖ろしいことではないということです。
 物理的な現象はもちろんですが、実際に「声を出していた」という場合でも、寂しがっている程度です。すなわち、何か「祟り」をもたらそうとしているわけではないということです。

 今年の冬の終わりには、心臓がドッコドコと不規則な動きをしており、医者からは「外科治療に踏み切れ」と勧められていた時期があります。
 この時に、自分のお腹の中から、女性の声が聞こえて来たことがあります。
 (このブログにも書いています。)
 はっきりした文章になっており、相当驚きましたが、それでも別段「怖ろしい」という感じではありませんでした。
 これくらいの現象は、煙玉(オーブ)と同じで、自然現象と超常現象の間くらいにあるもので、怖れる必要はないのだろうと思います。
 
 まあ、お腹から話が聞こえると、かなり気持ち悪いことは確かです。
 それと比べれば、人形がちょっと呻いたくらいなら、「大騒ぎすることもないよな」と思ってしまいます。

 この手の出来事は、現在進行している時は大変ですが、それが一度通り過ぎてしまうと、あとは「まったく何ともなくなる」ところが不思議です。