日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

魚を捌く話

◎ 魚を捌く話

 実家は小売り商店でしたが、昔で言えば「万屋」の規模です。
 商いの中心は鮮魚だったので、子どもの頃から厨房の内外で手伝いをしていました。
 年末年始が一番忙しい時期なのですが、マグロの半身とかマダラの丸(1本)を運ばされます。小学生の非力な体ではこれがキツくて、かつ掴みどころに困ります。
 マグロのツルツルした肌をどうやって持つのか。市場では鈎を使って引く訳ですが、魚屋ではそれがありません。
 掴めるところを無理に掴もうとすると、親たちに叱咤されます。
「バカヤロ。そこを持つんじゃない」
 蹴っ飛ばされることも多々あります。そこは魚屋で、魚屋はそういったもんです。
 体で覚える。
 丁稚奉公なら、何年もそのまま蹴飛ばされたでしょうが、そこは息子なので、父や叔父がいくらか説明してくれました。
 もっとも大事なのは、筋肉の繊維を損なわないようにすること。うかつに持って、圧力をかけ、組織に損傷を与えると、すぐに味が落ちてしまいます。
 どういう手の掛け方をして、どこで支えなくてはならないかも決まっています。

 叔父は「いいか。そこで見てろ」と、実際にやってくれました。
 マグロに包丁を入れ、身を切り分けたのです。
「ここにこういう風に筋肉と筋が走っている。この筋をこの角度で切った時と、別の角度で切った時とでは味が違う」
 ちなみに部位は赤身です。
 叔父の言う通り、同じ魚で同じ部位なのに、切り方ひとつで味が違います。
「味が違うってことはだな。客に売る値段も違ってくる。お前がああいう風に持ったら、その瞬間に何万円かが消えてしまうだろ」

 こういうこと以上に厳しく問われるのは、衛生面の管理です。
 魚屋の職人は、作業場や厨房に入る前に、着替えをし、靴を履きかえます。
 入り口を通る時は、必ず消毒をします。敷居を跨ぐ時は、必ず消毒をするのです。
 用事を伝えるために、外からうっかりそのまま中に入ろうとすると、やはり「バカヤロ」です。これは間違いなく蹴られます。
 特別な細菌ではなく、空気中にごく普通にいる雑菌でも、取扱いによっては、食中毒を引き起こします。ニュースで「食中毒事件」と言うとは、何かとてつもないしくじりをしたような扱いですが、実際には、「十分に手を消毒しないで、トレイを触った」くらいのことが多いです。
 衛生環境や、口に入るまでの時間などで、あっという間に毒に化けてしまうのです。
 その境目は本当に僅かな違いなので、頭で考えなくとも「体が覚えている」状態にするのが望ましい。
 このため、魚屋の職人が一人前になるには、何年もかかります。

 魚屋と同じように鮮魚を扱う寿司屋も同じです。
 もし寿司職人になれば、職人人生の間に、のべ何十万人かの客に寿司を提供します。
 そのうち、たった一度でも気を抜くと、客を殺してしまうかもしれません。
 確率は何十万分の1です。宝くじに当たるようなもの。
 しかし、その1回の当籤で、客を殺し、自分だけでなく店を潰します。 
 チェーン店ならチェーン系列ごと無くなったりします。

 昔は今のように、消毒液のように簡単に雑菌を落とす方法がなかったので、厨房や調理道具の取り扱いは、慎重の上に慎重を重ねて行いました。
 寿司職人が、手元に置いた小さい桶に時々手を浸しているのを見たことがある人は多いと思います。あれは、手を湿らせているのではなく、「酢水」で手を消毒しているのです。
 包丁の取り扱いとか、布巾の処理など、気を遣うことは他にもありますね。
 これはカウンターで食べている客には、まったく分からない。

 少し前に、ホリエモンが「寿司職人が一人前になるまで長期間かかるのは馬鹿らしい」とメディアに言っていました。
 この時、職人さんたちは、手を止めて考えただろうと思います。
 江戸時代と違って、今は消毒の方法は色々ある。味を極めるには、かなりの熟練が必要だけれども、回転寿司で、既に切り分けられたネタを客に出すのは、可能ではないか。
 しかし、その一方で、何十万分の1のリスクでもけして「ゼロではない」。これをゼロに近付ける努力は行うべきだ、とも思う筈です。
 この辺の加減は鋭敏なところなので、職人さん自身が考え、作り直すものだろうと思います。

 もちろん、ホリエモンみたいに、椅子に座って食うだけの人間が語る言葉ではない。
 「野球なんか、ルールを覚えれば誰でもやれる」
 「プロレスなんか、学生でもすぐに出来る」
 それは、あくまで真似事の領域であって、MLBやプロレス団体が行っているものとは、まったく別のものです。
 ものを知らないヤツは、ものごとを簡単に考えます。
 「清原。なんでここで打てないんだよ。オレなら絶対に打つ」
 実際には、できやしませんよ。
 「長く修行するなんてばからしい」は、それこそ人生観が透けて見えるようなひと言です。
 
 「魚屋、寿司屋の修業は十五年以上かかるのは昔の話で、今は衛生環境が整っているから、きちんとそれを学べば修業期間を短縮できる」
 そういうことは、プロの職人が語って、初めて「次に生かせる」言葉です。
 けしてホリエモン(素人)の言うことじゃない。
 こんな奴の意見をいちいち報道するメディアの頭もどうかしてる。こいつらもプロの世界を舐めきってますね。