日刊早坂ノボル新聞

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◎『死の国』ノート その5) 死後の魂

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◎『死の国』ノート その5) 死後の魂

■死後、魂はどこに行く?
(問い)「ではここでこれまでの要点を整理してみましょう。私たち生者にとって最も重要なことは、死んだ後にどうなるか、死ぬとどこに行くのかということです。端的に言って、どのような経過を辿るのでしょうか」
(神谷)「肉体は自我の拠り所で、ひとは五感を通じて感覚と欲望、様々な体験を通じて喜怒哀楽を得ます。その中で自我が生成するのです。昔、ある哲学者は『我思う。ゆえに我在り』と言いました。自我、すなわち基本的な視座を決めないと外界を観察することが出来ないからです。ある意味、それは正しく、また決定的に誤っています。自我は肉体と共に形成され、肉体と共に滅ぶべきものなのです」

(問い)「それは、いわゆる科学的な思考法や諸宗教の教える世界観とは、まったく違う見方ですね。神谷さんのお話では、肉体よりも先に霊的な存在があり、そこには自我、もしくは個我が存在しない。これは霊界のことですが、そこにいる霊はひと一人分のサイズではなく、集合として存在しています。それが一旦、霊気や霊素に分解し、あたかも精子卵子が受精するように、肉体の殻に合体すると生命が生まれる」
(神谷)「そうです。霊素(気)は霊界から分離して、常にこの世に降り注いでいます。それが肉体の素となる物質に入ると、そこで生物に結実します。霊魂はここでひととなるのです」
(問い)「そして、ひとはその肉体の感覚や感情を通じて、自我を形成してゆく。そうなると、前回のお話にあった『生まれ替わり』のことが簡単に説明出来ます。子どもたちは、まだ自我(個我)の形成が十分ではないから、殻の中にある魂がむき出しになりやすい。ひとりの魂を形成するのは、沢山の魂の喜怒哀楽や経験をブレンドしたものですから、元々、色んな記憶を持っている。子どもはそんな魂が自我で囲われていないから、中身を取り出すことが出来るのです。実際、そんな子どもたちの多くは、いざ長じると、前世の記憶にを思い出せなくなると聞きます」
(神谷)「多くの宗教では、死後の世界のことが語られて来ました。例えば、天国や地獄などがそうです。ひとの魂は人生に行った善行や悪行によって選別され、ある者は天国に送られ、ある者は地獄に送られる。その有り体は宗教によって様々ですが、ひとりの人間の魂がひとりの姿のまま、死後の世界に赴くという視点は、ほとんど変わりません。しかし、そこで見ているのは、幽霊を観察して得たイメージに過ぎません。幽霊は生前の姿に最も近い魂の状態であるからです。しかし、そのさらに向こう側にある霊界のことがまったく見えていない」

(問い)「それは致し方のない面があると思います。見たことのない、もしくは見た記憶を持たないことについて理解出来ないのは当然です。死んで肉体を失い、霊界に入れば自我を失う。そうなると、ひとりの人間であった時の認識とはまったく別の存在になってしまいます」
(神谷)「では、現に生きている者を基準として、死後どうなって行くか。そういう観点で眺めてみましょう。肉体が滅ぶと、それまでの人生で形成してきた自我が剥き出しになります。理性的にものを考えることが出来なくなり、心すなわちその大半が欲望や感情ですが、そんな気持ちに支配されるようになります。そこから先、ひとの魂はどこに行くのでしょうか」
(問い)「魂は分化と統合を繰り返す。それが魂の循環サイクルだというお話を頂いています。その流れに沿うのであれば、ひとは死ぬと、それまでの自我(個我)を捨て、霊界に戻ることになります。そうですね」
(神谷)「はい。基本的な流れはそれです。宗教界で言う『成仏』や『解脱』の考えがそれに近いでしょう。生前の一切のこだわりを捨て、心と魂が静かになると、その魂は自から霊界に向かいます。これが一つ目です」

■幽霊はいずれ消滅する
(問い)「そうなると二つ目は、死後も自我を捨てられずにこの世に留まるというものですね。幽界の霊、すなわち幽霊です」
(神谷)「幽霊は、いつまでもそのままの姿でいるわけではありません。肉体を失うと、自身を認識する手段を失ってしまいますので、時間の経過と共に自我が薄れて行きます。それでも、恩讐や執着心を捨てられれば、霊界に還流出来るのですが、それが出来ない場合は、そのまま霊素(霊気)に雲散霧消してしまいます。徐々に消滅するわけです」

(問い)「そうなると、幽霊の行き先は成仏するか消滅するかのふた通りなのですね」
(神谷)「そうそう単純ではありません。肉体が壊れると、自我を被う殻が無くなります。すると、どこまでが自分でどこからが他の魂か、境目が曖昧になります。同じような感情を持つもの同士がくっつきやすくなるのです」
(問い)「なるほど。霊界でひとりの魂が大勢のそれに合流して集合霊を形成するように、幽霊も合体するのですね。霊界と幽界で同じようなことが起きる」
(神谷)「悪意は悪意によって染まりやすい。『朱に交われば赤くなる』と言う言葉がありますが、悪意を持つ複数の魂がひとつにまとまります。元は複数なのですが、自我の境が曖昧なので、全体で自我を持つようになります。これは幽霊にとっては、逆に消滅を免れる手立てとなります」
(問い)「いつまでも生前の心に囚われているから幽霊になり、さらにその囚われの念を捨てられず、自我を保とうと思うから、他と結合して悪霊化するわけですね」

■霊現象はプロセス
(問い)「そうすると、生身のひとの魂、幽界の霊、霊界の霊はいずれも、霊魂が変化してゆく過程のひとつ、すなわちプロセスなのですね」
(神谷)「その通りです。これまでの人間の捉え方は、宗教にせよ科学にせよ、その根幹に、自我の存在を認めることが出発点としてありました。自我(個我)が死後も存在し続けるか、あるいは、肉体の死と共に消滅するという考え方の違いしかないわけです。ところが、実際には、自我・個我は霊界ではほとんど意味がありません。何百万人分もの魂がひとつになっているのです。例えば、一日の時間の長さを考えると、これは二十四時間あるわけです。その内の一秒はごく小さいもので、ほんの一瞬です。もちろん、その一瞬一瞬が一日を構成する重要な要素であると同時に、ひと刹那の部分でもあります」

(問い)「霊界では、全体と部分とを分けることが出来ない」
(神谷)「はい。それが霊界に於ける霊の姿です。かつてある人の魂だった要素は、その中に含まれていますが、その魂は他とは分けられない。ひとりが要素であり全体でもあるのです」
(問い)「すると、最初の『魂の循環』サイクルを正しく理解することが重要ですね」
(神谷)「まさしくその通りです」

画像は、質問者により宿谷の滝で撮影されたもの。転載不可。