日刊早坂ノボル新聞

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◎津軽為信はこんな人

津軽為信はこんな人
 岩手県では「津軽為信」のことを、絶対に「津軽為信」とは呼ばない。
 あれは「元は家臣の大浦為信」であって、「津軽三郡の国主などではない」という意識が働くためだ。
 このため、今に至るまで「大浦為信」と呼ぶことが多い。

 弘前藩は小領で、開闢当初は確か三万石くらい。後で十万石だったか。
 他の藩では、江戸開闢後、70、80年すると「藩史」を編纂し、歴史を捏造したが、弘前は小藩ゆえにそれを徹底することが出来なかった。
 このため、為信については、様々な伝説や異聞が残っている。
「身長が190センチ超だった」は、現在に残る甲冑のサイズから割り出したものだが、ま、殿様の威厳を示すために敢えてそういうものを作ったということだろう。 

 大浦為信は、南部氏が「たまたま」北奥の盟主になって行く過程で、合戦に継ぐ合戦の生活を送っていた。
 敵の城を攻め落とすと、その城に残ったものは戦利品として分けられるが、女性もその戦利品のひとつ。為信は敵を殺した後、奥の院に入って行き、城主の奥方を犯した。
 この手の話は、多く記録から抹消されるが、津軽では沢山残っている。
 「為信が誰それの妻(か女)を手篭めにして」みたいな話があちこちに書かれているのだ。
 まあ、戦国時代は、ニューギニアの部族と同じで、闘争を繰り返しては敵の首を刎ねていた時代だ。
 肉食獣のように、ライバルの雄を殺して、奥さんや娘を自分のものにするくらいは当たり前だった。
 偉い?のは、相手が高齢でも、きちんと正室の所に行っていることだ。
 要するに、女性を犯すのも、当時は支配者が誰かを示す儀式だった。

 古文書の類は嘘や作り話が多い。誰でも記録に残す際はそうする。
 伝言ゲームだって、僅か十人程度の言い伝えで、話がまるで違うものになる。
 そういうことのほうが当たり前なのに、為信は違うから、もの凄く好感が持ててしまう。
 盛岡藩になると、藩史はきれいごとばかりで、作り話なのが丸分かりだ。

 為信は主に命じられて、主の兄弟を殺しに行ったのに、その主が殺されて(たぶん)、主敵の息子が主になった。おかげで今度は反逆者にされて・・・、てな境遇から身を起こして津軽の国主になって行く。
 ドラマとしても面白い展開だ。
 立派な侍ではなく、人間臭く描けば、さぞ楽しいだろうと思う。

 話はこんな展開だ。
 敵の首を取り、為信が勢いのまま奥の院に突入する。
 すると、城主の妻が夜着を広げて待っていた。
 「貴方さまに従います」
 顔を上げると、七十の婆さんだ。
 そこで為信が眉を顰めて呟く。
 「やれやれ。国を手中に収めるのも容易なことでは無いぞ」
 下品な展開だが、とても嫌いにはなれん。

 津軽の人は怒らないでね。ここでは褒めているつもりです。