日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎慌てて神社へ行く(341)

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◎慌てて神社へ行く(341)
 買い物から帰り、家の入り口近くまで来ると、道に背中を向け、人が立っていました。
 数メートルの距離まで近付くと、その人が振り返ります。
 「わ」
 そこに居たのはお坊さん。と言うより、小坊主と言ったほうが良いくらいの年恰好の少年でした。
 おそらく十三歳かそこらで、袈裟を身に着けています。
 驚いたのは、その少年僧が1秒くらいで消えたから。
 「姿を消す」という表現がありますが、まさしく瞬時に消えていなくなりました。
 「生きた人間じゃなかったのか」
 ま、これくらいのことは時々あります。
 公園のベンチに座って、ボケッと眺めていたら、中央を歩いていたはずの人が消えてなくなったりします。30メートルを瞬時に移動出来る人はいないので、つまりは生きた人間ではないということになります。それと同じ。
 見え方はごく普通の景色と同じですので、その都度驚かされます。

 しかし、この時、私はその少年と眼が合ってしまいました。
 すなわち、双方が互いを認識したということになります。
 するとすかさず激しい腹痛が始まりました。
 このところ、体のあちこちから出血するようで、眼だけでなく、内臓や手足にも痛みが走ります。
しかし、今日のはそれよりもはるかに厳しい痛みでした。
 「まるで伝染病にでも罹ったような痛みだな。腸チフスとかコレラとか」
 ここで気が付きました。
 「最近の不調はこういうのが原因か」
 先ほどの少年僧の幽霊を取り込んでいるわけです。
 たぶん、その少年は伝染病で死んだ。あまりの苦しみから、霊界には行けずに、この世に留まっているわけです。そこでようやく私と出会った。
 通常、こういう時には、相手は大喜びで抱き付いて来ます。

 「こりゃすぐに神社に行かないと」
 例年、私は概ね年間150日以上、多い時には180日くらい神社やお寺に行きます。
 一定の宗教を信奉するだとか、信仰心からというものとは違いますが、参拝することで心と体が楽になるのです。
 それが今は2ヶ月ほど、ほとんで行けていません。忌中なので、行けなかったのです。
 その間、やはり日頃感じていた通りの事態が起きていた模様です。
 すなわち、様々な地を歩いては、私はあれこれ拾ってしまう。それをいつもは神社やお寺に下ろしているのですが、長期間下ろせなかったために溜まっている状態だということです。
 如何にも突飛な話で、妄想に囚われた者、もしくは心に病を持ったり、薬物依存症の者が考えることのようでもありますが、私の場合、時々、具体的な姿が画像に残りますので、「自分が精神障害ではない」ことが分かります。(たまに疑いますが。)
 少なくとも、ひとまずの理屈には合っています。

 そこで、「ホーム神社」のひとつである高麗神社に参拝することにしました。ひとまず、ここは「私サイド」だという実感があります。
 駐車場に下りると、まずはガイドである猫のトラの姿を探しますが、どこにも見当たりません。
 そこで、神殿に向かい、「あちこちから救われたい者たちを連れて来ましたので、引き取ってください」と祈念しました。
 その瞬間に体が楽に・・・なったりはしませんが、少しだけ心が軽くなります。
 「40分くらいは境内に留まる必要がありそうだ」
 2ヶ月の間、干渉されていたとなると、半ば私の中に深く取り込んでしまったものもあるでしょう。
 神谷龍慶氏の表現を使えば、魂の「同化」吸収です。
 いざ取り込んでしまうと、再び切り離すのはなかなか難しい。

 ゆっくりと境内を回ると、中庭の隅にトラがいました。
 「さっきはどこにも見当たらなかったのに、どこから出て来たのだろ」
 これもいつも不思議に思うことのひとつです。30辰ら50辰らいを「飛んで来たのか」と思うほど瞬時に姿を現します。
 トラは私を見つけると、のそのそと近付いて来ました。
 椅子に座り、おやつを与えるのですが、トラはそれを食べ終わるとすぐに膝に乗りました。
 まるで「撫でて行け」と言わんばかりの振る舞いです。
 近くで参拝客のご婦人がそれを眺めており、「あらまあ」と驚きました。
 暫くの間、背中を撫でると、トラは「ニャア」と挨拶をして、膝から降りました。
 ちょうど、「もう今日は帰るね」と告げているかのようです。
 私の方も猫に礼を言い、そのまま別れて来ました。

 帰宅途中で、信号で止まると、どうしたわけか、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいたようで、車が前に突進しようとしました。
 前の車に追突しそうになりましたが、幸い、こういう時の処置法は日頃練習しています。
 すかさず、いつも通りギアをニュートラルに入れ、ブレーキを踏み直しました。
 「危ねえ危ねえ。コンビニに突っ込む高齢者みたいだな」
 この時、私にはアクセルを踏んでいるという感触がまったく無く、足はブレーキの位置だという感覚があったのに、実際はアクセルの上でした。
 「こりゃ、怒っているんだな」
 私が自分を下ろそうとするので、おそらく抵抗しているのです。
 こういうのが全部綺麗になるのには、何日も掛かります。
 可能な限り、毎日参拝して「下ろす」必要がありそうです。

 このところ、「自分は8月頃までに死ぬ」という実感があったのですが、まだチャンスがあるのではないかと思い直しました。
 こういうのは、「ある日突然」変わるわけではなく、振り子の軌道を変えるようにゆっくりと変化します。現状に気付いたのは朗報ですが、何とか対策が間に合って欲しいものです。