日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎認知症とは違う

認知症とは違う
 今から1年8ヶ月くらい前に、父が妄想を抱くようになった。
 その妄想の多くは、母の「男」に関するもので、「男が突然、訪問して来て『奥さんを連れて行く』と言った」とか、「母がその男と温泉に行った」という類の話だ。
 それを父は「母が浮気をしていた」と見なし、伯父に電話したりしてちょっとした騒動になった。
 親族は一様に「認知症が進んだ」と見なし、父を介護施設に放り込んだ。
 その後、1年くらい前に母の病気が判明して、その後は入退院を繰り返し、結局はこの春に亡くなった。

 今に至るまで、父の話を誰一人まともに聞いたことがなく、取り合う者がいなかった。たまたま当方が施設を訪れた際に、その時の話になったので、「実際は何を観たのか」を確かめてみることにした。これが先月の話だ。
 すると、今になって分かったことは、父の妄想の総てが「母の病気の進行とシンクロしている」ということだ。
 最初に「男」が現われたのは、癌が発生して間もない頃だ。
 その後、手術するごとに病状が変化するわけだが、その度に「男」が現われている。
 これで、ただ単に「脳が情報をシャッフルしたことで妄想が生じた」わけではないことが分かった。
 父は母の病気を予感・予知していたのではないかと思う。
 ま、ここは当方流に言えば、その男は死神だ。
 そう書くと、多くの人は伝説や迷信の中に出て来るそれを思い浮かべるが、まったく違う。ひとの死の間際に現われるから「死神」と表現するだけで、知識上のそれとは別物だ。

 当方はこの数年、色んなものを見るが、これもやはり死期の迫った者が観る性質のものだと思う。
 何故なら、体調が回復して、命の危険が遠ざかると、亡霊が現われる頻度がかなり減るからだ。
 他の人にとっては、やはり「ただの妄想」に見えるだろうと思う。
 精神に異常が生じたのではないかと自分でも疑うわけだが、時々、写真に写ってくれるので、少し平静になれる。
 ま、どういうものであれ、「死期の迫った者の前に現われる」性質のものなので、やはり穏やかではない。

 自殺した者の中には、どういうわけか、死に間際の姿を取ったままでいるいる者がいる。それが、首を吊った者だと、両目が眼窩から飛び出して、舌を顎の下まで垂らしている。
 死んだ後もそのままの状態でいるわけだが、たぶん、なかなか死ねずに苦しんだせいではないかと思う。
 そういうのが出てしまうと、さすがにその画像はすぐに捨てる。画像そのものが影響を与えることはないが、間違っても共感しないようにするためだ。
 こういうのを一度見てしまえば、当方が直面しているものが何かを誰でも実感できると思う。
 もちろん、あえて求められなければ他人に見せることはない。人によっては、そのことで当方と同じことが始まる可能性があるからだ。
 こちらは、いざ始まれば、もはや引き返すことは出来なくなる。
 「好奇心でした」では済まないし、引き返そうと宗教家や霊能者の手を借りても、何も変わらない。
 大半は実態を何ひとつ知らず、ただ単に知識を語っている。
 守護霊も指導霊も地縛霊も空想上の産物に過ぎず、いると「都合が良いから」存在するかのように語られる。カテゴリーで分けることは出来ないし、まったく意味がない。

 生きているうちは、なるべく「あの世」のことを身近には感じたくないものだし、考えないほうが幸せに生きられる。
 妄想でも現実でも、死神は目の前に現われては欲しくない性質のものだろう。もちろん、ただの妄想や空想ではないことが分かった今では、なおさらそう思う。