日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎次第に変化する

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◎次第に変化する
 ここは温泉旅館ですが、お湯の音が女の「囁き声」に聞こえる時があり、どきっとします。
 家人にもはっきり聞こえるくらいなので、たぶん、誰の耳にもきちんと聞こえると思います。
 実は今回はその声がまったく聞こえなかったので、「出ないかも」と思っていたのです。

 しかし、画像は毎日変化して、どんどん前に出て来ますね。
 ここは、鎌北湖や宿谷の滝よりも強い霊場です。お客さんの大半が気づいていないところがまたすごい。毎日検証していますが、前回、家人の後ろに見えていた女と小座敷の女は同じひとなのではないかと思います。服の色が違うのは、日の光の当たり方。ということは、前回は私の後ろに実際に立っていた、という意味です。立ち位置をほぼ同じにしたのですが、角度が違っていることを考え合わせても、前回は私の体の少なくとも半分は写っていなくてはならないのに、やはり消えています。

 細かに見ていくと、気になるのは次の点です。
 ,蓮∩芦鵝割と鮮明に写っていた女ではないかと思います。通常、視線が私に向けられているのですが、脇を見ているので、実際にそこにいた人かと思ってしまいました。
 でも、後ろの部屋は飾り部屋で囲炉裏を見せるだけ。人はいませんし、カウンターの上まで上半身が浮いています。足が地に着いていない。
 △蓮当初、私は柱の影かと思ったのですが、屋内にも外にも柱はありません。もしかして「黒いひと」かも。「黒いひと」は無味無臭というか、心がなく影だけの存在です。

 は「いつもの女」です。どこで撮影しても、異常が出た時には必ず入っています。

 い賄儀薪な悪霊。幾十と重なると、能面や鬼面のような表情になります。もちろん、画像に写ったからと言って、何か影響が生じるわけではありません。自己都合でそこにいるだけです。画像の写る・写らないとは関わり無く、影響する者はするし、しない者はしません。要するに、写真とはまったく関係ないということ。

 ッ砲禄仍呂瓩如△燭屬鵝強くならずに消えると思います。「男」と書きましたが、幽霊は存続のために、複数が同化しますので、男女の別にはあまり意味がありません。

 とまあ、解説を付けましたが、総てあやふやで確かなものではありません。
 良いのは、総て、自分自身で撮影し、状況を確認しているという点だけです。

 △「黒いひと」だとすると、これは私にとってあまり良い材料ではありません。依然として危機は続き、私は3月末までに死ぬ可能性があります。なぜなら、「黒いひと」は「お迎え」の一種だからです。

 ところで、たまたまテレビを点けたら、霊能者だか研究家だかが心霊写真の「鑑定」を試みていました。
 思わず大笑いしました。「鑑定」って、「あの世」は骨董か何かと一緒なの?
 元々、霊感など想像や妄想と変わりなく、あやふやなものです。さらには、「前日と今日で変化している」性質のものでもあります。
 その場にいて、撮影した者であれば、それが「説明のつく」ものかそうでないかは、自分自身で分かります。
 それを「鑑定する」のは、関わる者全員が「画像だけ」を見ているということ。
 その霊能者だか研究家は「この画像は悪い影響はありません」とか言っていました(笑)。
 おいおい。

 たぶん、直接、「霊」に会ったことが無ければ、自分では一度も心霊写真を撮ったこともないのでしょう。
 プロ野球の解説者には、多くプレイヤー経験者がなるわけですが、こちらのジャンルでは、ボールを一度も持ったことのない者が、まるで自分が投げたり打てたりするかのような話をします。

 繰り返し言いますが、例えどういう画像でも、画像から何かの因縁が発生することはありません。
 これは画像とは関わり無く発生するもので、画像からではないという意味です。
 何か悪影響があるのなら、写真があろうが無かろうが発生します。

 自分自身で一度も心霊写真を撮ったことがない者に「真贋を訊ねる」なんて、要するに、興味本位の域を一歩も出ていないということです。
 感想を語り合うことに何の意味があるのか。
 ホラー映画を観る次元から前に一歩も二歩も踏み出さない限り、何も得られません。
 必要なのは、実証に近づくこと、近づけることですよ。
 
 最後はやや脱線しました。
 ちなみに、この旅館に行って、特別怖い思いをしたりすることはありません。
 扉はどこにでも開いており、たまたま開く頻度が高いだけです。
 私も含め、霊感の99%は想像や妄想で、かつ影響があっても、それは心のうちだけの話です。
 当家も時々訪れる良い温泉ですね。