◎母は有り難い
金曜に買い物に出ると、すぐに気分が悪くなりました。
体全体がモヤモヤするし、脇の下や鳩尾に強い圧迫感を覚え、時々、チリっと痛みます。
「こりゃ心臓の発症が近いよな。今日が『その日』なのかもしれん」
「その日」とは、もちろん、私がこの世から去る日です。
もはや何時来てもおかしくありません。
既に私は寿命らしきものが終わっているようだし、今はいわば「お釣り」の日々。
そう言えば、「お迎え」の使者(死者)の姿をはっきりと目視してから、もはや3年半が経ちます。
覚醒時に、まともに「お迎え」に会った人の話を収集していますが、他の事例では、長くとも1年ちょっとくらい後までに、皆亡くなっています。
3年半も生きているのは、新記録ではないか。
ま、常時、具合は悪いです。
まともに歩ける方が少なく、もはや健康な人と同じことは出来ません。正直、1/3も今は無理。
それでも、医師は「普通は立って歩けないはず」と言いますので、レアなケースなのでしょう。
原稿を書ける状態であれば、そちらに専念しますが、まだ体調が整っていません。エネルギーを必要とするのですよね、これが。
自身が「あの世」に近くなっているせいか、やはり日頃の関心は「あの世」のこと。
今は専ら「死んだ後にどう振舞えばよいか」を考える日々を送っています。
日記的に書く内容も、必然的に「あの世」のことが多くなってしまいます。
そんな中に「触れてはならないこと」があるようで、この数日、私はそれに少し触れてしまったようです。
「あの世」のことをみだりに語ったり、「自身に特別な霊能がある」などと騙ると、すぐさま手痛い返礼が返って来ます。
本物で、かつ優秀な「霊感師」「霊能者」の末路は、「誰かに殺される」か、全身が「重い病に冒され苦しんで死ぬ」のふた通り。ゆめゆめ吹聴などしてはなりません。
常に謙虚な姿勢を保ち、死者に敬意を払う必要があります。
ま、本物はほとんどおらず、大半が妄想家の類だろうとは思います。
このところ、少し余計なことに触ったようで、この日の体調不良は、その「差し障り」のような気がしていました。
「この世の滞在許可が取り消しになるかもしれん」
それはそれで致し方ありません。
すぐに帰宅して、居間で横になりました。
家族が帰って来る頃には、冷たくなっていたりして。
そのまま休んでいたのですが、お茶を飲もうと起き上がりました。
台所に行き、お湯を沸かします。
すると、いつもの通り、カウンターの陰にひとの気配があります。
概ね「女」で、これももはや日常の出来事になっています。
ところが、この日は感覚が少し違いました。
この気配には覚えがあります。
「お袋か。お袋が来たのか」
三歩進み、カウンターの陰を確認してみますが、やはり誰もいません。
しかし、あの気配や息遣いは、慣れ親しんだ母に違いありません。
「子や孫のことを案じて、まだこの世に留まっているのだな」
最近は、あまり感じなくなっていたのですが、まだ留まっているのです。
ここで、母の遺体が病院から家に運ばれた夜のことを思い出しました。あの夜は、私の車の警告音が十数回鳴ったのです。
あれは、たぶん、母が「自分はここにいるから」と示すためのものだった。
さらに、亡くなる前日まで、母は自分のことではなく、孫(私の息子)のことを案じていました。
気が付くと、つい先ほどまでの鳩尾の重さや体のだるさが小さくなっています。
「母親は本当に有り難い。悪縁を遠ざけてくれたか」
伊豆での画像に写った集合霊が少し腹を立てたようですが、母がなだめてくれたのではないか。
そんな気がします。
「最近は少なくなっていたのに、来てくれたか」
なんでだろ。
答はすぐに分かりました。
この日は、孫(私の息子)の入学式でした。
父親は式には出られなかったのですが、その代わり、祖母(母)が見に来てくれたわけです。
母が亡くなって1年が経ちましたので、ご供養を重ね、いずれ彼岸に向かって貰おうと思います。
それには、まずは心配をかけない、というのが一番です。
追記)伊豆の集合霊は「霊能者っぽい」ことを騙る者が嫌いなようで、それを検知すると、出動する惧れがあります。最も不味いのは、「幽霊を招き入れる」ことですが、「自らを吹聴する」ことも、禁忌事項です。「自分は霊能者で」などと標榜したりしたら、直ちにそのひとに取り憑くのではないかと思います。そもそも第六感、霊感の領域に「能力」(統制力)などは存在しないので、努めて謙虚に振舞う必要があります。