◎普通の人でも幽霊になる
この数年は、写真を撮影すると、その度に十枚に一枚は「説明のつかないもの」が写っています。
前にも書きましたが、過去十五年くらいの総数で5百枚はあったはずですが、うち百五十枚くらいはこの数年内のものです。
その中で自分なりにもっとも衝撃的だったのが、今年の1月21日の画像です。
見た目におどろおどろしさはまったくなく、「従来の幽霊像とは違う」という意味で衝撃的なのです。
ガラスにはジャンパーを着た女性(か子ども)とその隣にもう一人の人物が割と鮮明に写っています。
(この場合、「ガラス映りとしては鮮明」という文脈です。)
とりわけ左側の女性の姿が「見えない」という人は少数派でしょう。
あまりに自然に映っているので、実際にはそこに人が立っていたのではないかと自分を疑ったほどですが、いつも周囲に人がいなくなるのを見計らって撮影しています。この時もそうでした。
だいたい、右側の人物は首から上が消えています。(ぐちゃぐちゃになっている。)
何の変哲もない普通の女性の姿をしているのに、どうしてこれが衝撃的なのでしょうか。
その答は「恨みや怨念とは無縁の存在である」ことが分かるからです。
すなわち、「ごく普通の人生を送った人でも、死後、幽霊になる」という意味です。
これまで、幽霊は「怖ろしいもの」として捉えられて来たわけですが、しかし、ごく普通の人生を送り、ごく普通に病気で亡くなった方も幽霊になるのです。
私は幽霊(幽界)はひとつのステップであって、特別なものではない、と考えていますが、その考え通りのものを具体的な画像として見せられると、「信じる」とか「信じない」などという次元ではなくなって来ます。
そうなると、「ある」「なし」、「存在を信じる」「信じない」というのは、もはや非常に低い次元の話になり、主題は「どのように存在しているのか」というものに移ります。
現時点で分かっていることは、これまで信仰や宗教を通じて教えられて来たものは、実際の様相とはかなり違うということです。
病死した人は、死後、暫くの間、そのまま自我を保つらしい。仏教界では「四十九日」と言ったりしますが、実際には1年から3年近くこの世に留まっていることがあるようです。
おそらく死を受け入れ、生前の人格を手放すことが出来るようになるまでの期間だろうと思います。
病気を患い、ある程度、自らの生と死を塾考する機会があった人は、割と早く執着心から解放されます。
不慮の事故で亡くなる場合、長く暗闇の中に留まり、それから再び自我が目覚めるようです。死に至る覚悟が出来ていないことによるのではないかと思いますが、これはよく分かりません。
十年前後と言われますが、確かめることが出来ない話です。
恨み・辛み、怨念に凝り固まっていると、死後も自我を保ち、強い念を持った幽霊になるのですが、既に合理的にものごとを考えられなくなっています。これは頭脳を失っているからで、理性的な振舞いはもはや出来ません。
単純に自分の持つ悪意に似た存在に引き寄せられ、いっそう自我を強化しようとするだけです。
具体的には、複数が合体・同化してひとつにまとまります。
あるいは生きている人の心に自分の心情を吹き込み、同調させてしまいます。
悪縁は「自ら招き入れぬ限り寄っては来ない」と言いますが、これはそういう理由です。
幽霊は自身の欲望や執着心に囚われた存在なので、心に病を持つ人と同じような境遇にあります。
粗暴な振る舞いをすることもありますが、それは執着心から、すなわち病気によるのと同じことですので、存在自体が怖ろしいわけではありません。
このため、幽霊を「怖ろしいもの」「忌むべきもの」と見なす考え方は、明確な誤りを冒しています。
たとえ幽霊であっても、心が癒されれば、自我の拠り所を失いますので、自然に寛解し、ひとつ一つの感情や記憶のエッセンスに分解されることになります。
今日の要点は次の通り。
「霊(幽霊)は怖ろしいものではない」
これは「霊は過程であって、帰着ではない」ことを背景にするものです。
「幽霊に同調・同化する、もしくは幽霊を迎え入れなければ、悪影響をもたらさない」
ちなみに「極端に恐れる」のは「同調する」のと同じ意味です。
「敬意を払わず、無視・蔑視すると、幽霊も当然、腹を立てる」
これは人間に対するのと同じです。突然、小馬鹿にされたり、侮蔑を受ければ、誰でも怒ります。
要するに、肉体を失っても、基本は生きているひとと同じなのだから、諸事、「死後の存在はある」ことを前提に対処するべき、ということです。
ここで必要なのは話ではなく実証ですので、今後も確認作業を進めるつもりです。
ま、次々と「証拠を出して見せられる」とは思います。