日刊早坂ノボル新聞

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◎霊界通信 「2019年のギャラリー」

◎霊界通信 「2019年のギャラリー」

 コロナ以降、まったく余裕が無かったので過去の情報整理を怠っていた。

 そろそろ整理しようと思うが、しかし、令和5年にHDが破損し、令和2年から4年にかけての元データが使えなくなってしまった。手元にあるのは、ウェブ掲載用の縮小画像で、元々不鮮明なものがさらにボヤけている。

 令和2年から3年が「これは証拠になる」と思わせるような画像が多かったが、すぐに取り出せる状況にはなくなった。

 しかし、他者への説明のための資料作りは二の次三の次だ。既に今生の期限が迫っているから、まずは己が理解することを優先する。

 

 ちなみに、この年で最もスゴイ画像は一月末の「防護服の男」だ。これがどういう意味なのかが、その時点ではサッパリ分からなかった。消防服なのか?

 その後、コロナ感染が爆発的に増え、「防護服らしい」と気付いた。

 横浜に香港からのクルーズ船が着いたのが二月初めで、まだ国内感染者が正式確認されていない時のことだから、想像がつかないのも無理はない。

 その場に私以外の人はいないのだが、画像には「疑いなく人影」と判断出来るものが残っていた。

 その他は普通の幽霊で、珍しくも怖ろしくもない。

 この時点で分かったことは、

1)私自身の可視域が通常より少し広いこと(赤外線域)。このため、私には見えるものが、他の人には見えないことが多い。

2)幽霊の側から、私は見られやすいこと。生きた人間が幽霊のことが見え難いのと同様に、幽霊の側からも生きた人間は認識し難い。ところが、私については、所在を簡単に悟られるためか、幽霊が後ろをゾロゾロとついて来る。

 たぶん、これがかつてO先生が言っていた「神霊体」という性質のことだ。嬉しいことは何ひとつない。

3)可聴域にもずれがあるようで、「声」は日常的に聞こえる。

 可視域ほどの違いはないようで、私が聞く声(この世の者ではない)を妻も聞くことがある。

 繰り返し記すが、こういうのはただの感覚のずれで、特別な能力があるわけではない。近視や老眼、難聴(逆だが)に同じ。ただ迷惑なだけ。

 そもそも、人間に「(特別な)霊能力」はない。もしそれを「ある」と自称するなら、何ひとつあの世のことを知らぬか、ただの詐欺師。これまで自分自身で霊の写真を撮影して見せた「霊能者」は一人もいない。自分自身でコントロールできぬものが「能力」ではないのは自明の理だ。

 加えて、「霊の恐怖」をことさら言う者も全く話にならない。人間に色んな者がいるように霊も様々。しかし、心の安寧を得た者は自我の紐帯を消滅(または昇華)させるから、「幽霊として人の姿をした者は、総てが執着心などに囚われた存在」で、簡単に言えば「総てが悪霊に近い」者だと言ってよい。

 幽霊の目的は「自我の存続」で、幽霊として生き残るために、他との合体を試みる。

 幽霊が人に寄り憑くのは心に入り込むためで(同化)、生きた人間以上に幽霊同士でも同化と合体を繰り返して、自我の存続を図っているようだ。「死ぬこと」の意味は違うが、「己と言う存在が消えてしまうこと」を怖ろしいと感じるのは、生きている人間も幽霊も同じだ。生きている者は肉体の滅びを怖れ、死者(幽霊)は自我の滅びを怖れる。要するに「死」には二段階あるが、自我の統一性が崩れ、断片的な記憶に分解すると、それを再構成して、新しい自我の素地が出来る。崩壊と再構成(「自我の再生産過程」)がすなわち輪廻だ。

 

                      2020年以降は追って再開。