日刊早坂ノボル新聞

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◎十一月は「あの世」の季節  (平成元年の振り返り)

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令和元年十一月二十九日撮影

◎十一月は「あの世」の季節  (平成元年の振り返り)

 毎年、十一月から十二月が「あの世がもっとも騒がしい季節」になる。

 写真を撮影すると、頻繁に「存在しない筈の光や影」が写る。

 誰もいないところから声が聞こえる。

 普段、「あの世」をあまり感じぬ者でも、注意深く観察すると、何らかの異変を体験している筈だ。ただ気に留めぬだけ。

 

 あの世(幽界)は、字の示すごとく朧げな世界だ。ひとの自意識(自我)が生前のまとまりを保ち、混然と存在している。目に見えにくいから、「ガス状」もしくは「霧状」の気体の中に様々な要素が隠れていると考えると分かりよい。

 時としてその霧がかたちを形成し、ひとの姿となって現れるが、そこで初めて、「かつて人間だった時の意識の残骸」を目にすることが出来る。

 だが、やはり目視はし難い。人間の可視域の境界線を跨いで存在している。線の上を振り子のように揺れているらしく、可視域側に出ると、ほんの少しの時間、姿を眼にすることが出来る。

 カメラは知覚範囲が人の眼よりも広いので、「ひとの眼には見えぬが、カメラにだけ写る」ことがある。

 相手(幽霊)は霧の中にいるから、元々、鮮明には写らぬわけだが、慣れて来ると、「目の錯覚」なのか、「隠れている」のかの違いを区別できるようになる。

 

 画像は平成元年のものだ。これまでに幾度か開示しているので、見たことのある人も多いと思う。この時がそれまでの考え方を一新させる契機になったので、今も時々開いてみる。

 神殿の前に立った時には、私の他には前に男性が一人。神殿内に数人の状況だ。

 最初の画像では、右後ろ、かなり遠くに人影が立っているのだが、これは朧気で判然としない。これだけなら「気のせい」で済ませられる。

 二枚目を撮影した時には、男性客が既に去り、ガラスの前には私一人が立っていた。

 

 二枚目の画像をよく見ると、私の右肩付近に女性の顔らしきものが見える。

 少しずつ拡大していくと、やはり高齢の女性のよう。

 少し驚いた表情をしているが、まるで「フラッシュが急に光ったので驚いた」みたいな状況だ。

  肩が触れそうな位置に生身の人が立っていれば、誰でもすぐにそれと分かるから、最初に周囲を見回した時に女性を見落としていた可能性は低い。

 朧気であっても、人の姿であることはバッチリ分かるから、紛れもなく幽霊の姿だろうと思う。

 

 よく見ると、その高齢女性の後方にも人の姿が見える。うなだれる女性(多分若い)のシルエットが浮かんでいるのだが、医療従事者のような制服を身につけているようだ。こういう不自然な姿勢で固まっているケースは、概ね自死者のことが多い。

 自死者は「死に間際」の念で凝り固まっているので、長らくそのままの状態でいる。

 その時の思いを繰り返し反芻しているから、まったく動けぬのだ。

  この女性を縛っているのは、自身の感情だ。

 この女性の近くに、稲妻のような、もしくはガラスの傷に光が反射したような筋が見えるのだが、これは「あの世」と「この世」が繋がった時に出るものだと思う。

 電線のように真っ直ぐな光の時もある。

 「あの世」現象は電磁波とも関係している部分があり、おそらく磁気異常が起きている。稲妻はそれを反映するものだと思われる。

 これが出ていれば、姿は見えずとも、近くに幽霊がいると思って間違いない。

 

 さて、この時を境に、それまでの考え方を総て「捨てる」ことになった。

 この時、私がもっとも驚いたのは、すぐ傍にいるお婆さんが「ごく普通の姿」をしていたことだ。

 これは「怨念」とか「恨み」などとは無縁の「ごく普通の精神状態のひとの姿」になっている。

 詳述を避け要点だけ記すと、これは「死ねば誰でも幽霊になる」こと、すなわち、あの世(幽界)は単なるステップであり経由地であることを指す一例だ。

 

 生まれ落ちてから、ひとは自我を形成し、人生体験でそれを強固にするわけだが、肉体の死からは、それと逆の道を辿る。今度は自我を解体し、バラバラな感情と記憶の断片に拡散させていく。

 砂で作った造形物は、時間の経過と共に崩れ去る。だが、さらさらの細かい粒になれば、今度はそれで新しい造形物を作れるようになる。

 それなら、何一つ怖れるべきことなどない。

 「死」はただの一ステップなのだから、怖れる必要はない。

 「あの世の住人」、すなわち「幽霊」は、人間の心が元になっている。人間に善人、悪人がいるように、幽霊にも質の悪い悪霊がいるわけだが、だからと言って、幽霊総てが怖ろしいものであると見なすのは誤りだ。

 ただ、生きていれば肉体や表情に隠れ、表には現れぬ「心の中」が、死ねば丸わかりになる。ひとの心の奥には「醜い気持ち」が溢れているから、大半の幽霊は気色悪い姿、表情をしている。

 

 ともあれ、今は「あの世」に関わる記録(事実)を丹念に残して行く外に道はない。

 その意味では、科学的検証を丁寧に積み上げる必要があると思う。

 

 オマケ画像は、この年の十二月のもの。

 ガラス戸の境目に立つと、左右の扉に、自分の姿が二重に映ることがあるのだが、その自身の人影ふたつの間に「何か」が入っている。判然としないが顔のようにも見える。

 そこでガラス戸の二重映りを重ねてみると、痕跡があるべき箇所には何もない。

 要するに、その「何か」はどこから発生したのか、根源が存在しない。

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令和元年十二月二十七日撮影