日刊早坂ノボル新聞

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◎十一月は「あの世」の季節 (続)さらなる検証

 

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令和元年十一月撮影画像の周辺

◎十一月は「あの世」の季節 (続)さらなる検証

1)幽霊がその場にいる人に姿を似せる

 さて、前回の続きになる。

 周囲に人がいない状況で、ガラス窓に老婆が映り、それを写真撮影した。

 その時点では、まだその事態が分かっていない。

 社務所に寄り、再び戻ってきたところで撮影すると、階段を上がって来る女性の姿が写っていた。

 この実在の参拝客と、「老婆」の外見が少し似ている。外見と言うより服装だ。

 このことがあったので、暫くの間、「後から来た参拝客が写り込んだ」ケースを疑っていた。

 何かの用事で、その客が行ったり来たりしていた、というわけだ。

 だが、まず似ているのは全身の印象だけで、参拝客はせいぜい五十から六十の間で顔も違う。

 そもそも、「老婆」は半透明で、背後にある建物の屋根が透けて見えている。

 人間の身体を透過して、後ろの景色が見えることはないから、生きた人間ではないと判断してよい(①および②)。

 

 尤も、重要なのは「老婆が幽霊かどうか」ということではない。

 「私の状態が正常かどうか」ということだ。

 同じ画像の左側に視線を移すと、そこに私がいる(③)。

 目視はかなり難しいのだが、私の周囲には自然の光ではないものが幾つか見える。

 これは同じ場所に六百回通い、四千枚から五千枚の画像を撮影しているから分かることで、他の人には判別できないと思う。

 私もこれが「不自然」に見えるようになったのは割と最近だ。これは専ら経験による。

 

2)死者の隊列

  これと類似するケースを挙げてみる。

 ④はこの年の十月に撮影した画像で、これまで幾度も取り上げて来たものだ。

 この時も私は参拝客の切れ目の時に撮影し、周囲には人がいなかった。

 だが、私の周囲を割と沢山の人影が取り巻いている。

 最も目立つのは、私の左の腕にしがみ付く白い顔の「女」と、私の胸元に手を差し入れる「男」の姿だ。この他にも、その「男」の背後にムカデ行列よろしく人影が連なっている。

 

 この「男」にも謎があった。この画像を撮影する前に、参拝客が一人いたのだが、印象がこの「男」に似ていたのだ。白っぽいシャツに肩掛け鞄の風体がそっくりだ。

 このケースでも、長らく「見間違い」を疑っていた。

 実は前の参拝客が去っておらず近くに居た、という可能性だ。

 こういう検証では「可能性の議論」ほどバカらしいものはない。「同じ人だった可能性がある」では、何の証明にもならない。必要な知見は「それが事実かどうか」という確証だけ。

 画像だけ見てそれで判断しようとするから「可能性」の話に留まるわけで、私はその場にいたので、何度でも現実にその時の状況を検証できる。

 

 この解明は簡単だった。よく見れば分かるが、前にいた参拝客は長袖のシャツなのに「男」は半袖だ(⑤)。そもそも、神社の境内で、他人の懐に手を差し入れれば、その相手(この場合は私)が反応する。男が胸元に手を入れているのに、何も気付かぬ者は居ない。私も同じだ。

 要は、実体のない人影が私の周囲に群がっていた、ということだ。

 幽霊らしき人影がひとつ見えると、とかく「心霊写真」だ「幽霊が写った」と騒がれるが、ひとつ二つではなく、七つ八つがムカデ行列を為して後ろに従っている状態だ。

 

 ここでの興味深い事実のひとつは、幽霊はその場にいる者の姿に似せる傾向があるということだ。このため、人込みの中に混じっていたりすると、それとは気付き難い。

 令和二年からコロナが流行し、皆が何時でもマスクを掛けるようになったが、「その場にいない筈の人影」が画像に残る場合でも「マスクを掛けている」ことが多くなった。

 これはどこから来るのか。

 幽霊は「自我の存続」を目的として、他の幽霊や生きた人間の心の中に入り込み、同化を図る。そのひとつのステップとして、「相手の姿に似せる」のだろう。

 相手に近寄って行く過程で、姿を似せ、その者に手を掛け、たぐり寄せる。

 同じことを目的とする幽霊が近寄るから、結果的にムカデ行列が形成されることになる。

 

 これまで、一枚の画像の中に、私と「私そっくりな人影」が同居しているのを幾度も発見して来た。私と同じような服装をして、同じポーズを取っても、細部まで同じには出来ぬから、どこかに綻びが生じる。それで別の者が偽装していると分かった。 

 こういうのは早期に発見して、分離して置くに越したことはない。

 対策には特にお祓いなど必要なく、「今の自分自身の気持ちが本当の自分の心から出たものか」を自問してみると良い。その中には本来の自分のものではない考えが混じっている。

 私の場合は、たとえ朧気であっても、「画像の中に幽霊の姿を窺い知る」ようになったから割と簡単だ。

 幽霊は「消滅したくない」と思って、必死でしがみ付いて来るのだから、「怨念」とか「憑依」「祟り」などとは本質的には無縁の話だ。

 溺れる者が藁を掴もうとするのと同じこと。

 もちろん、うっかりするとしがみ付かれた方が溺れてしまうから、油断は大敵だ。

 自死者は死後も「死に間際の感情に囚われている」と書いたが、その感情に共感し、同化してしまうと、その傍にいた者は「とにかく死にたくなってしまう」。

 「自殺霊が取り憑いて死に至らしめる」のではなく、「死に至る気持ちに共感して同じように死にたくなる」ことがあるから、常に分離を心掛ける必要がある。

 

3)幽霊は割と長く傍にいる 

 ついでだが、この時の画像には、私の左腕に掴まる「女」の姿が朧気ながら写っている。はっきりしないが、これが「ひとのシルエット」だということは、多くの人が認めると思う。

 令和元年から二年にかけて、この「女」らしき人影が度々、姿を現わした。

 いずれも白い袖無しのワンピースを着ていたから、私は「白いワンピ-スの女」「白い女」と呼んでいた。

 気配がどれも同じなので、恐らく同一の「女」だ。

 仮に同じ「女」だとすると、半年くらいの間、傍にいたことになる。

 気が付かなければ何とも思わぬわけだが、それらしき腕など体の一部が画像に残ってしまう。

 だが、別段、何が起きる訳でもない。専ら「心に働き掛ける」ということだろう。

 さしたる悪縁(霊)ではなかった、ということでもあると思う。

 今はこの女はもう傍には居ない。

 笑い話だが、これが「妙齢の割と小ぎれいな女」だから、平然と受け止められたが、これが逆に「妖怪顔の老婆」であれば、さぞ気が滅入っただろうと思う。

 あるいは、アモンのように「妖怪そのもの」の姿をしていれば、割と現実感なく受け入れられる。「想像や予想を超えるこういう者まで居るわけだ」と納得する。

 

4)誰の身にも起きている

 まだ三十過ぎの頃、身の回りに不審な出来事が相次いだので、思い余ってある霊感教会を訪ね、霊能者に見て貰ったことがある。

 その時、その霊能者は開口一番で、「あなたは生来、霊と関わりやすい性質だから、早く修行に入るべきだった」と言われた。(霊能者は「神霊体」という表現を使った。)

 その後も、不審な出来事が続いており、未だにその処置に苦心しているが、最近、ひとつのことに気が付いた。

 それは「周りに幽霊が寄り付くのは、私に限ったことではない」ということだ。

 誰の肩にも、時々、幽霊が手を掛けているし、後ろに長い隊列が出来てもいる。

 ただ、それに気付く人が少ないだけだ。

 そして、気付かぬ方が人生の多くを気楽に暮らして行ける。ま、死ぬ間際になれば、否応なしに目に見えるようになるから、ソコソコの信仰を持っていた方が良い。

 信仰は「体の不自由なひとにとっての杖」と同じ意味で、ひとを支えてくれるものだ。仮にどういうかたちでも、支えてくれればそれでよい。それが「単なる杖」であることを分かっていれば、どの杖を使っても問題はない。もちろん、他者をないがしろにせぬ杖を持つべきではある。

 

 人間の「常識」など、「あの世」には一切通用しない。これまで言われて来た「死生観」や「幽霊に関する見解」など、「ちょっとした噂話」の域だと思う。

 「あの世」は基本的に怖ろしいものでも何でもないが、その一方で、ひとつ扱いを間違えると、想像をはるかに超える怖ろしいものに替わる。

 幽界の周りには、「個(自我)を持たぬ意識の断片」がガス状に囲んでいるが、これが霊界だ。

 広く言えば、霊界の中に幽界も現世界もある。

 だが、この霊界の外には、漆黒の「虚無の空間」が広がっている。これはどこまで行っても何も無いから、それが最も怖ろしい。何一つ存在しない闇が果てしなく続く。